みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

桃の缶詰は雨上がりの午後に

「明日はどこに行こうか」と、ハルカがうれしそうな声でいう。彼女がさっきまで飲んでいた、ココアの上に載ってるマシュマロみたいな声。

「あのさ、」わたしはレモネードのグラスから顔を上げられない。

「わたしたち、いま、別れたんだよね?」

「そうだよお。でもそれはそれ、これはこれでしょう? カナエと一緒だとたのしいし、かわいいもん。カナエと美味しいものが食べたい」

「だってハルカが振ったんでしょう。わたしは嫌。耐えられない」

「うーん」

 ハルカはわたしのグラスの底で薄くなったレモネードを飲み干してわざとらしいむつかしそうな顔をしている。

「とりあえず、ここ出よっか。すみませんオカイケー!」

 店員に手をひらひらと、熱帯魚のひれみたいに振るその手が、ああやっぱりわたしは好きなのだなあと思い知る。いちどは止めた涙が、また溢れそうになる。

 そのあと、長いエスカレータを上って地上に出ると、ハルカはわたしに傘を押しつけて、「折りたたみあるからー」と駅のほうへ走っていった。「明日迎えに行くからね!」だそうだ。通りの向こう側、夏の雨が海辺の遊園地の乗り物たちを、わけへだてなく濡らしていた。

 

 けれどつぎの日、午後になっても彼女は来なかった。せっかくいい天気になったのに……と考えてしまうじぶんが、というかそもそもハルカを待ってしまうじぶんが悔しい。

 ショートメールの既読もつかなくて、水出しのアイスコーヒーをすべて飲み尽くしたころ、わたしは電話をかける決心をした。みごとなまでの鼻声で、「モモの缶詰がだべだい~~」とハルカはいった。

 

「えへへ」とドアを開けたハルカは、口のなかでもはやとける寸前のマシュマロみたいに甘く、はかなげだった。

「なにがそんなにうれしいのよ。ほら桃! 薬とスポーツドリンクも買ってきたから、食べてお薬飲んだらまた寝なさいよ」

 くそうかわいいなあ、が顔に出ないように、できるだけつんけんして通告する。

「だってぇ、」

 そのとき、

「はじめで、がなえがら」

 ハルカの優しく垂れたりょうほうの目から、

「カナエからはじめで電話してくれたんだもん」

 大粒の涙が、コマ送りみたいにぼろぼろ落ちていった。

 

 そうなのだ。わたしは今まで、じぶんからハルカに電話をかけたことがなかった。ただの一度も。そのことにハルカが気づいていることも知っていて、だけど知らない振りをずっとしていた。

 

 入学式後のオリエンテーションで隣になったハルカは、誰よりも垢抜けていて、そつがなくて、なのに地味でやたらと目つきが悪いことに定評のあるわたしにもひとしく優しかった。学園祭の模擬店で同じシフトに入ったのをきっかけに、いろんなところに誘われるようになり、半年前の2月、春休みの初めに恋人同士になった。

 だけどわたしはいつでも、ハルカがじぶんを選んでくれたことが信じられなくて、嘘なんじゃないかと思って、たまらなかった。どこかもっと暖かい、たっぷりの陽が降りそそぐ南の海へと、ハルカは泳いで行けるのに。自由に泳いで行くべきなのに……。

 わたしは自信がなくて、傷つかなくていい方法をいつでもどこかに持っておきたかった。だからわたしは、じぶんからはけっして、ハルカに電話をかけなかった。ハルカが呼んでくれるからわたしは恋人でいられるのだと、関係をぜんぶハルカの声に、引っ張ってくれる手に、ぜんぶぜんぶ負わせていたのだ。

 

「だって……もうわたしたち、恋人じゃないんでしょう? だったら意地張ったって仕方ないじゃない」

 缶切りに力をかけながら、わたしはほそく声を絞り出す。

「そんなの……ぞんなのいいよぉ……意地を張ってても油断してふにゃふにゃのときも、あたしはカナエのことが、かわいい大好きなカナエが好き。なんだもん」

 派手に鼻をかむ音。

「昨日だってほんとはね、折りたたみ傘なんて持ってなかったんだ、あたし」

 全身が粟立つ。目頭が、耳が熱一気に熱くなる。

「ばか」「ばか、ばじゃないの? そんな、じゃあなんで……どうして別れるなんて――」

「怖かったんだもん」

 ハルカには初恋の子がいて、その恋は16歳で成就した。同じ大学に行こうと約束までしていたのに、高2の1学期が終わる日、相手の子は夏休みと同時に転校して、引越し先の県で進学することを急に告げられた。その日付が、ちょうど3年前の今日なのだという。

「またあたしばっかり好きなのかなって。思ったら、どうしても怖くなったの。恋人のまま今日を迎えたら、今度はカナエが遠くに行っちゃうんじゃないかって。だからね、仲良しなうちに、楽しいだけのうちに、友だちに戻らなきゃって」

 ぬいぐるみの耳の間に顔を埋めて、それでもハルカは上目遣いにわたしを見ることをやめない。

 そっか、とわたしは思った。同じだったんだね。怖いのはわたしもきもみも同じ。やっとそれがわかった。ふたりともばかだから、こんなぶさまな方法でだけど。とつぜん遠くに行ってしまうのは、ハルカなんだと思ってた。だけどわたしだって、隣りにいながら、ハルカを遠ざけて傷つけてた。

 友だちとして、楽しいままで、楽しい関係だけを――。そつのないハルカなら、それをやってのけるだろう。傷つきたくないずるいわたしも、それに応じてみせるだろう。でも、そんな日々がいったい、どこに行き着くというのだろう。

 昨日、去っていくハルカの向こうに見えた、海辺の遊園地を思い出す。いまごろあの観覧車の窓は、回転木馬の幌は、夏の午後の陽射しにきのうの水滴を輝かせているだろう。そこに一緒に行きたいと、彼女と行きたいと、つよく思う。

「ハルカ」

 わたしはひざまずいて彼女の右手をとる。

 その甲にくちづける。

 誓う気持ちで。祈る気持ちで。

「カナエ……?」

「電話、これからはわたしからもかける。だからね、ハルカを置いて遠くに行っちゃった人と、わたしは違うって、信じて。わたしはハルカが好きになってくれたわたし。わたしもハルカも、違う種類の臆病者かもしれない。元に戻ったら楽しいことだけじゃなくて、苦しくてつらくて胸がチリチリして、死にそうになるかもしれない。ううん、なる」

 閉め切ったカーテンの隙間から、一筋の光が、向き合うわたしたちを貫く。

「だけど、そういうのぜんぶ含めて、やっぱりわたしはハルカが好き。だからもう一度、もういちどわたしと……恋人どうしになってください」

「カナエ……うん、うんうんうん! よろこんで! カナエ!!」

 抱きついてきた彼女を軽くいなして仰向けにする。

「口にチューはだめ。風邪がうつる」

「え~~つまんない。じゃあおでこ」

「だめです」

 大げさに踵を返して、わたしは桃の缶詰の続きを開けにキッチンへと戻る。

 そう、続きはこれからだ。

「風邪が治ったらさ、傘、買いに行こうか?」

 わたしは愛しい彼女へと振り返る。

「うん、おそろいのやつ」

「それから、遊園地に行こう」

 ぐしゃぐしゃの顔のまま、ハルカが笑った。

 明日はきっと、元どおり。

歌の声、「私」の地平

 『島田修二歌集』(国文社)をひさしぶりに開いた。たとえば次のような歌に、あらためて心を動かされる。

もの書きて畢るにあらぬこれの世の浄福に似てとほき夕映『冬音』

雨降れば甕にしづけく水溜るこの確かさに生きたきものを『渚の日日』

 一首目、「あらぬ」「似て」と何重にも断言を避け屈託を見せるもの言い。二首目、まるで宿命のごとく重力に従う雨滴への憧憬を、苦々しく漏らす結句。これらの歌の背後からは、個人の生の重みが、ひたひたとしずかな圧となって伝わってくる。しかし、私の心を揺さぶったのは、ほんとうに言葉の響きが伝える圧なのだろうか。歌集を通読することで、作品よりも作者の境涯そのものに感動したのでないとどうして言えるだろう――。近代以降の短歌に接するとき、いつもこの種の不安がつきまとう。

 同書に収録の塚本邦雄による作家小論「星夜の辞」こそは、この不安を最も雄弁に述懐するうめきである。作者側からも、読者側からも。

戸籍上の私は作品の何処にも棲息しない。否生存を許さない。現身の即虚妄の「私」は、しかしながら作品中の「私」にあらゆる悲惨と栄光を負はせようとした。人間、この崇高にして猥雑極まる存在がそのやうなクレドで律し切れるものではない。律し切れぬ不如意に時として私は唇を嚙んだ。

 今回読み直すまで、この小論は、作者の私生活と作品とを無批判に結びつける態度への呪詛である、という印象が強かった。だがどうやら、ことはそんなに単純ではない。吉川宏志はこの小論を引いた上で、次のように述べる。

いくら消そうとしても、作者の生活の影が作品からにじみだしてくることに、塚本は絶望している――いや、絶望しつつも、言葉と生身の人間が結びついていることに、ひそかなよろこびを感じていたのではないだろうか。塚本ほど「私」を否定しようとした歌人はいないが、「私」を否定すればするほど、存在がたしかになっていく「私」を、逆説的に愛していたようにおもうのである。

「仮定法の読み・複線的な読み」*1

 そうなのだ。そもそもこの小論の文体からして、塚本の身もだえを引き写したかのような熱を帯びている。短歌の場合はここまで直接でないにしろ、作中の「私」を消そうと試みる作者も同時にまた「崇高にして猥雑極まる存在」である以上、消そうと試みる手つきが「人間」の痕跡を作品に残さないわけにはいかない。生活者と仮構の主体、あるいは虚と実の相克の上に――いやむしろ、相克のさまそれ自体において立ち現れる「私」を読むことこそが、短歌を読むという実践ではなかったか。

 と、一旦は納得しかけながら、やはり私はひきさかれる。歌の息遣いに作者の身もだえを読み取ること。それは我々にとって逃れがたく、ときに豊かな方法であるにしても、別の道もあるはずだと思えてならない。端的に言えば、私は同時代の歌も、新古今集を読むような遠さと親しさで読み、また詠みたいのだ。

忘れめや葵(あふひ)を草に引きむすび仮寝の野べの露のあけぼの  式子内親王

 一読、どのような状況で歌われたのかよくわからない。斎院時代を回想した歌だが、その知識がなくとも、上句で歌われた行為の、まじないめいた感じは鮮やかに伝わってくる。その呪術性は、下句の「の」音の反復により増幅される。なにより、憂いを帯びつつも湿り気のない初句切れの嘆息は、瞬間、人間社会の重力から自由である。

 しかしもちろん、新古今時代の歌に感じるこのような慕わしい清潔さは、その修辞の巧みさばかりでなく、作者と私が生活者として同じ地平に立っていない、という安心感に拠る部分が大きいのだろう。逆に言えば、近代以降の歌の「私」が立つ地平は、生活者としての私と、時代も社会も地続きでありすぎるのだ。そのことがときに歯がゆい。この地平の上では、社会生活を営み苦悩する身体としての「私」が、どうしても優位を保っているように思える。

まどろまで眺めよとてのすさびかな麻のさ衣月に打つ声  宮内卿

 いったい誰が誰に「眺めよ」と語りかけているのか。その声を聞いて「すさびかな」と詠嘆するのは誰か。この歌では、行為者・観察者としての人間は背景化されている。どちらの声もなかば宙空に浮きながら、砧を打つ音と溶け合ってたゆたう。心と言葉をなかだちする依り代としての身体性をも、歌の「私」はたしかに備えているはずなのだ。 

しののめに待ちびとが来るでもことばたらず おいで 足りないままでいいから                                            井上法子『永遠でないほうの火』

〈おかえり〉がすき 待たされて金色のとおい即位に目をつむるのさ

 2016年に刊行された著者の第一歌集(書肆侃侃房)から引いた。「来る/でも/ことばたらず」の急迫調から一転して呼吸をおき、おそらく自身もこわがりながら、それでも手を伸べている声。遠く尊い者への希求と、背中合わせの諦念が入りまじった、気高くしずかな宣言。井上の呼吸は、虚実の相克による「私」の現出という前提を相対化しているように思える。

 社会生活を営む私の身体を、どだい私は拒みきれない。だが、作者が唇を噛みつつも、歌の「私」の声には、どこか地上から離れた涼しさを纏っていてほしい。この愛憎とたのしく踊るすべを、どうにか模索していきたいのだ。

 

初出:「いしかわ文芸 第27号」石川県文芸協会(2017年3月)
(紙幅の都合上泣く泣く削ったところもそのまま残したディレクターズカット版です)

土と氷のあいだのにおいと銀の靴

――私は
北の善き魔女(グリンダ・ザ・グッド)*1
親切なともだちの蜘蛛(シャーロット)
ライ麦畑のみはり番

そういうものになりたかった

ただ きらきらときれいなものだけを 差し出せるような

やさしいだけの存在に  でも

(鳥野しの『オハナホロホロ』祥伝社、2012年、p.75-77)

 さっき帰ってきて夜9時のニュースでフィギュアスケートの映像をみてやばい羽生結弦さんこんなん人間ちゃうやろって思って、そのあと前回の冬のオリンピックから4年も経ったのかよ、とがくぜんとした。大学受験のときに荒川静香さんが金メダルを取って、つぎはまわりのみんなが卒業するタイミングで自分だけどんどん置いていかれるような気がしながら織田信成さんが演技中に靴紐切れたけどまた滑ったのをみて、その4年後はこんどこそ人の2倍の時間かけて大学を離れる春、京都にいた最後の春先で、羽生選手が金メダルを取ったのでした。人生の節目に冬のオリンピックがあるみたいなイメージが、春先にやるから余計に、あって、だけどこんかいの4年間はなにもせずにただただ流れ落ちてしまった時間みたいな気持ちになっている、のが今。きっと、ていうかぜったいそんなはずはないのだけれど、どうにもこうにも。

 4年前のじぶんのツイートを検索してたらそうそう、あの季節にはつめたい空気にやわらかな陽が差す今出川通を「なごり雪」をくりかえし口ずさみながら歩いていたなあというのを思い出した。(京都にくらしてはじめて、冬にもきもちよく晴れる日があって、ひだまりのある冬が世界にはあるのだと知った。北陸とはちがって。)それから、あの2月には「お気に召すまま」を読んでいたらしくて、昨晩「十二夜」を読み終えたところだったのでほほうおもしろいタイミングじゃないの……って思ったんだけど、なんのことはなく、4年前は卒業をひかえて大学の図書館使えるうちにだらだら趣味の読書をするぞーと思って木下順二訳のシェイクスピア全集を何冊かだけ読んでたので、とくにシンクロニシティとかではないのだった。(だらだら趣味の読書をするならべつに大学図書館でなくてもよいのではと思われるむきもあるかもしれませんが、窓からのながめが好きで、22時まで開いていて、合計するとどれだけ居眠りしたかわからないあの場所が空間として好きだったので、だらだら趣味の読書をする贅沢をさいごにあじわっておこうとおもったのよ。)

 ところでどうして今「十二夜」を読んでいたのかというと、昨年の晩秋くらいから鳥野しの祭りが(自分のなかで)始まっていて、『オハナホロホロ』で言及されていたから(主人公の一人・麻耶が高校のときにヴァイオラの役をやったエピソードがあって)。手許にある『オハナホロホロ』の1巻はまだ連載が続くって決まるまえだから(1)って書いてなくて、そういうタイプの1巻は特別感があって好き。ずーっと2巻以降は読んでなかったのだけど、去年になって思い立って読んだら今まさに必要なおはなしだった。生きていると、誰かとしゃべったり遊んだり暮らしたりしながら生きていると、中くらいのめでたしめでたしはきっとそれなりに訪れて、だけどめでたしめでたしのあとも容赦なく地続きにつづいていく日々をそれでもだれかとともに生きていく、みたいなことはとてもとても困難だ。1巻の時点でみちると麻耶とニコはなんとなく軟着陸のめでたしめでたしにおさまって、だからこそ続きを読むのがこわかったのかもしれない。めでたしめでたしだと思った場所はつぎの瞬間嵐にさらされはげしくゆれる甲板で、それでも隣の誰かと同じ船に乗る決意がどれだけむずかしくて、だからこそいとおしいのかということ。いつまでも〈かわいいゆうちゃん〉ではいられないゆうたが船であり嵐であり雲間の光でありはるかへ渡る鳥でもある。そう海、海の比喩をなんとなく使ってしまったのはやっぱり5巻の海芝浦駅で別れる場面がいままでみてきたどんな場面よりかなしくてうつくしかったから。海芝浦駅にかならず行きたくなった。できれば晴れた日に。会社でつかっているMacの壁紙を海芝浦駅のいろんな時間の写真にして、1時間おきに切り替わる設定にしてしまったくらい。それくらいあたまに焼き付いて離れない。ねむいまま書いていたらさすがに冗長になってきてしまったのですが、とにかくとても勇気をもらったので、『オハナホロホロ』はぜひとも読んでくださいたのむ。

 漫画の作中で(とくに作中人物の口からじかに)引用されていた作品を読むのはなんともいえない楽しさがあって、『嵐が丘』と「鹿鳴館」とあと『赤毛のアン』は志村貴子経由で読んで、なかでも『青い花』で上演される「鹿鳴館」は井汲さん視点からも上田さん視点からもあーちゃん視点からみてもそれぞれの状況や心情と絡まりあってめちゃくちゃやばいんですけど、これはいつかちゃんと書きたいなあと思っています。さいきんはほかに『オズの魔法つかい』もじつは初めてちゃんと読んで(劇とか映像作品とかであらすじは知ってたけど)、『オハナホロホロ』の1巻でかかとを3回あわせるおまじないが出てきたのと、あと四宮しの『銀のくつ』はタイトルにもなっていて、この漫画もとても好きだったので。『銀のくつ』は幼稚園児のジュンくんを中心に、ジュンくんのお父さんと、ジュンくんの前でもいつも鳥のきぐるみをけっして脱がずに生活している「お母さん」のなんてことない日々が語られていく。「お母さん」にはお姉さんがいて、そのお姉さんが「ドロシーはばかよ 世界中どこへでも行ける靴で 家なんかに帰るなんて」*2と口にして本を投げ捨てる回想のシーンが1話めの冒頭で、そのせりふがみょうに頭に残ってしまった。半分同意したいし(だってどこへだって行きたい、できればひとりでいたいし同じところにとどまっていたら魂が死んでしまうきがする)、もう半分はばかみたいだとしてもほほえんで自信をもって銀のくつのかかとを3回あわせられるようになりたい、みちるや「お母さん」みたいに、っていう気持ち。

 すごいなんだかほんとにとりとめがなくなってきたのでそろそろちゃんと寝るための準備をしますね。今日はずっと最寄り駅に置きっぱなしだった自転車に乗って帰ってきた。雪がなくなって地面が見えてきていて、眼鏡が曇るのでマスクをはずしたら春のにおいがことし初めてした。春のにおいは土のにおいなのだな、と思った。

 

*1:「"南"の善き魔女」の誤りと思われる

*2:四宮しの『銀のくつ』幻冬舎、2016年、p.4