みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

暗いところで洗濯物を(2015.10.15)

 とある事情があってわが家にはいまインコがいる。大伯母、くわしく言うと母方の祖母の姉にあたる人(以下おばさん)が飼っているインコである。預かって半月くらいになる。名前はチュン。名前はなくて愛称なのかもしれないけど、とにかくチュンちゃん。チュンはよく食べよく眠る。米とパンをがつがつ食らう。おばさんはご飯を自分の口で咀嚼したものを指や口からじかに食べさせていたのだけれど、それだと籠から出さなきゃいけないので格子越しに召し上がっていただくことにしている。言っとくけどほんとにすごくがつがう食うからな。エレクトリカルパレードのメインテーマを鍵盤で弾いている指の動きを思い浮かべていただきたい。その5倍速でくちばしが動きます。ただ、食べているときより眠っているときのほうがチュンは存在感があるような気もする。彼女は早寝なので、わが家でいちばん早く帰ってきたひとが夕方、パンか米を与えて、うとうとしだしたら風呂敷で籠ごと包み込んで夜にしてあげている。かくしてチュンは眠る。ベランダに面した窓のそばに夜の籠を置くことにしていて、するとそちらは南側なので、物干し竿が渡してあり、つまり洗濯物が干されている下で彼女は眠っている。きょうもチュンが寝てから洗濯物を干したのだけれど、ふつうならつける小さな電灯をつけずに、暗いなかでシャツをハンガーにかけて吊るした。濡れている布に指で触れ、つまみ上げ、もう片方の手はハンガーを触り、左右でべつべつのひやっこさを感じる。視覚を制限することで触覚がすこし冴える、ような気がする。こういうのって意図してやろうとすると、たとえば目を閉じて虫の声を聞くとかすると、そのじてんで身構えがわざとらしくなって、じぶんに対する演出みたいになっちゃいがちである。でも明かりをつけずに洗濯物を干した動機はようするに「まあいっか」なので、感覚を冴え渡らせるのが目的ではないため、ほんのちょっと健やかな感じがする。強いるではなく、懇願するでもなく、「まあいっか」方式で洗濯物を暗がりで干させるあたりに、眠っているチュンの存在感があるなあと思うのだった。(2015.10.15)

100エーカーの破れ目(2015.09.05)

 どちらかと言うと映画は苦手なほうだったはずなのだけど、ことしは映画づいている。さいきん劇場で観たのは『追憶と、踊りながら』『バケモノの子』『マッドマックス 怒りのデスロード』『花とアリス殺人事件』、借りてきて観たのは『惑星ソラリス』『ペーパームーン』『サウンド・オブ・ミュージック』『かもめ食堂』とかだと思います。ですじゃなくて思いますなのは数え忘れてたり去年みたやつが混じってるかもしれないからです。映画はいきなりとある世界に放り込まれたりばーんて示されたりしたわりに2時間そこらでその世界とか物語とか人たちの運命とかがいちおう完結するじゃないですか、すると〈一部始終を目撃するひと〉を2時間ぶっとおしでつづけないといけないのでなんとなく気構えがいるじゃないですか? しょうみなはなし? って思ってたわけよ。うんと幼いころはレーザーディスクでディズニー映画(など)を死ぬほど何回もみていたので、映画ってひとつの完結した世界なんだよっていう刷り込みがあるのかもしれない。ほら100エーカーの森みたいに。霧の中でプーとこぶた(レーザーディスク版だと「ピグレット」じゃなくて「こぶた」なのだ)が同じところをなんどもぐるぐるまわって、同じ穴ぼこに帰ってきてしまったことで有名なあの100エーカーの森。だけどよくよく思いだしてみると、歩き疲れてそのクレーターみたいな穴ぼこでうとうとしてしまったこぶたたち、目覚めたあとお腹が空いたプーの嗅覚によってすんなりはちみつの待つおうちに帰れたんだったはず。われわれも映画が終わればおうちに帰るし、借りてきたDVDもツタヤの棚に帰るし、映画のなかの人たちもどこかへ帰ったり帰らなかったりする。と、ここまでだらだらと前置きを書いたところでちゃんと筋道たててまとめるのがめんどうくさくなってきました。今日観た映画について話すね。呉美保監督の『きみはいい子』です。とても理知的に構築された映画で、つくる側が情に流されてないからこそ泣いてしまった。長回しのシーンが多かったり、母親が娘をぶつのを隣の部屋から撮っていたり、おばあちゃんちの玄関のすりガラス越しの逆光や、長いマンションの廊下の気の遠くなる感じ、雨の音と会話の声がひとしく釣り合っている音響の感じ、などなど、総じて一步うしろに下がったところから作っている印象だった。だからこそ後半で人と人、顔と顔、肌と肌の距離が近づく描写がすんなり胸に入ってきたのだとおもう。逆光から順光へ。苦しいのはこれからもつづくよ、一発逆転の魔法でなにもかもに片がつくなんて無理だよ、だとしてもだからこそ抱きしめたいよ。帰りに香林坊から武蔵まで父と母と歩いた。映画の前は駐車場から3人ばらばらに劇場まできた。尾山神社のステンドグラスがさっきは夕日を受けて、こんどは電灯で内側からひかっていた。帰ってきて2月にもらったチョコレートフレイバーの紅茶を飲んだ。飴の瓶の蓋があかない。明日は日曜日だ。(2015.09.05)

本棚と銀の観覧車(2015.06.27)

 じぶんがいくつなのかほんとうにまったく見当がつかない。世間的には1987年生まれの28歳っていうことになっているらしい。伝聞でしか言えない。わたしによって生きられた時間はぐにゃぐにゃに折れ曲がって進んでいるし、断絶もしたし、とにかく一様でない。ましてや計量なんてできない。計量といえばさっき体重計に乗ったら50キログラムを切ったままでした。服を着たままだったし、しゃぶしゃぶ食べ放題から帰ってきた直後だったし、身長は172センチです。なんだかここ2年くらいは炭水化物あんまり食べられなくて、晩ご飯のときもあまりおかわりをしなくなった。思春期以降、おかずというのはご飯を食べ進めるためにあると信じて疑わなかったのに、今ではその逆で、いろんなものを食べて一杯だけごはんがあればいいなとおもう。そういう意味ではちゃんと加齢を体感できるのだけれど、でも不可逆なものとは限らないんではないかとか、この変化ってどこかで断絶があってたとえばある日寝て覚めたらこうなってたんだったような気もしないでもないし、あやふやすぎる。つまり過去のじぶんと比べてさいきんはお米を欲しない身体である、と判断するときの過去のじぶんっていうのが、現在の自分が仮構したものでしかないでしょう、みたいな。うまくいえないけど。『ハチミツとクローバー』は大学に入った年に読んだ、いつの間にか森田さんも追い越してむしろ野宮さんたちの年齢に近くなった、けど青春スーツ「再」装着とかそういうんじゃなくて、わたしはわたしの人格を瞬間ごとにランダムに本棚から抜き取って生きていて、年齢なんてそのときたまたま指が選んだ巻数にすぎないのでしょう? みたいな。森博嗣はVシリーズ(とあとスカイ・クロラシリーズ)が好きで、Vシリーズは高校生のときに読んだので、すぐ年上の練無と紫子に心惹かれて読んだ。し、今もまだ彼らは僕よりすこしだけ先の時間を生きている。後日譚であることを匂わせる短編も何年か経ってから読んだりしたけれど、そうじゃなくて大学生の練ちゃんとしこさんが常にすぐ前のけっして触れられないところを歩いている。ことしのGWは体調を崩していてどこへも行かず、近所のニトリで本棚を買ってきて組み立て悦に入りながらすごした。木の匂いがかなりつよくしていて、でも薄れていくのだろうなということもわかっていて、過去や記憶や未来を組みかえながら忘却しながら諦めながら慈しみながら本をいろいろに並べた。じぶんの生きた時間やこれから生きる時間なんてそういう風なあり方でしかこの世に存在できないのではないのか。対外的なものとして開示している年齢はせいぜい背表紙みたいなもので、本の中身はわたしにしかできない順番でアクセスするしかなくて、アレンジするしかなくて、統御することはできない。この春から妹が神戸で暮らすことになり、引越しを手伝いに行って以来このあいだ久しぶりに彼女の部屋を訪ねたのだけれど、その出発前にふと思いついて中井久夫『清陰星雨』を荷物に入れた。神戸のことも書いてあるよ、と言って妹に渡したその本は、たしかむかし春合宿の最後の日に三月書房で買って、でも一年くらい寝かせてそれから寝る前や眠れないときにすこしずつすこしずつ読んでいったのだった。こうやって分けることができてうれしい。じぶんがいくつなのかわからない感覚はどんどん強まっていくし、かつてはめまいを覚えたりもしたけれど、いまはむしろこの乖離のために安堵できている。新しい本棚の木の匂いのなかで読み終えた最初の本は柳川麻衣さんの『ロータス』で、最後の章でたどりついた屋根裏部屋のにおいをたしかに僕も嗅いだ気がした。本棚の上にはきのうもらった観覧車が乗っていて、暗くなった窓に銀の体をうつして、ひかり、まわっている。(2015.06.27)