みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

神様除去

 三連休なのでひとりぐらしらしくひきこもっている。端的に言って鬱屈としている。ここでむさぼるように読んだり書いたりできればいいのだけれど、そうもいかずいたずらに考えごとと無駄なネットサーフィン(死語)ばかりしている。

 先週2巻を買ったばかりなのにこいいじの3巻と4巻を立て続けに買い、娘の家出の5巻を買い、あと『聖の青春』も買ってきて読んだ。

 前回のひとりぐらし、学生のころはとにかくお金がなかったくせになぜかアルバイトをしていなかったので、さみしさと金銭的なぎりぎりさが癒着して、癒着していたがゆえにぼんやり拡散せずにかえって生き延びるというただひとつの方向づけが気持ちの上でできていたように思う。いまは多少はお金を好きに使えるので、いろんな感覚がぼやけてしまう。スーパーに行って牛乳とチーズとヨーグルトを三つともためらわずかごに放りこめることに、なぜかすこしの絶望を覚える。すこしの絶望がどんどん積み重なる。かといって自分の楽しみのために思い切ってお金を使うことにも慣れていないので、せめて本だけはある程度好きに買いたいなとおもってすこしずつお財布の紐のゆるめかたの練習をしている。それが本題じゃないというのはわかっていながら。

 お財布の紐のゆるめかたがうまくなるより先に、人への接し方が雑になっていくのを感じて、それがとてもつらい。ゆめお姉ちゃんみたいに「人の気持がわからない冷血人間なのだ」と笑ってうそぶくにはまだ成熟できていないし、それを成熟と呼ぶことへの抵抗がおばけみたいにじぶんを苛む。わたしはやさしくなりたかった。誰か他者を生きる意味にするということでは決してなく。

 この年の将棋年鑑で、棋士全員に送るアンケートの項目の中に「神様が一つだけ願いをかなえてくれるとしたら何を望みますか」というものがあった。
 それに対して、村山はたった4文字でこう答えている。
〈神様除去〉
 それは、なんとも美しくも悲しい問答であった。 

大崎善生『聖の青春』講談社文庫、p.284) 

世界時計に手を振る

 金曜日だったので昨日は本を買った。会社を出て15分くらい、大きな建物の6階にある広い本屋さんに向かって歩く。すこし肌寒い。城址公園のところでなにかのイベントの設営をしている。テントを張ったりとかそういうの。東のほうの空には綿ぼこりのうすいのみたいな雲がかかっていたけど、夕日はちゃんと西の空に焼きついてた。本を買って、駅までいつも通勤するのと平行に一本ちがう道を歩いていたら、街路樹に集まったムクドリたちが超音波みたいに鳴いてた。おびただしい数の、とぎれないすさまじい声。まだこの土地はすこし異界みたいと思う。あたりはすでに藍色を通り越してすっかり暗く、ムクドリたちは街路樹の葉っぱにくろぐろと覆われて姿が見えない。右手に見えるホテルの地下には中華料理屋さんがあって、小さいころはよくお正月に家族と食べにきた。幼いころの記憶からきゅうに今ここに飛んで、間が抜けているので、パラレルワールドみたい。

 引越してきて3週間くらい経つ。

 寝る前に読んだ『こいいじ』(2)のなかで、主人公のまめちゃんが引越しをしていた。まめちゃんの、ぼんやりしているうちにアラサーになってしまった感が他人とは思えない。寝て起きて今日は土曜日だったので掃除とお洗濯と買い物と、あとカレーを作った。いま書きながら気づいたけどまめちゃんも昨日の夜、家にひとを呼んでカレーを食べてたのでまねっこみたいになってしまった。まめちゃんがカレーを食べたのはほんとは昨日の夜ではないのだけれど。そしてこちらはこのあと一人で食べるのだけれど。

 お昼ごはんはカップ焼きそばを食べた。これも昨日買った『女の子の食卓』(よりぬき文庫版)に入っているカップ焼きそばの話を読んで今日の昼にまんまと食べたくなったからなのだけれど、その経緯を写真つきでシェアしようとして、でも急にむなしくなってやめてしまった。

 ところで、お正月にだけ毎年行っていたその中華料理屋のあるホテルには、1階のロビーに世界時計があった。ふすま4枚分くらいあったように思う。ツヤ消ししてある金色っぽい地に、シルエットだけの世界地図が浮き彫りになっていて、いくつかの都市の名前に明滅する時刻が添えられている。遠くにいる好きなひとたちを、生活のなかでふっと立ち止まって思うのは、世界時計に似ている。見えない場所で、パラレルにちがう時間を浴びているみんなたち。一人ひとりがロンドンとかより絶望的に遠い。というより、その遠さも慕わしさも、物語のなかのまめちゃんに対してのものとちっとも変わらない。

 遠いからときどきごはんの写真をSNSに投げたりするのだけれど、イイネがついた瞬間はロンドン(比喩)で生活するそのひとが目の前にいるみたいに感じるけれど、ほんとは世界時計のある壁に向かって手を振っているだけなのだった。

 

 だからロンドンへのエアメール程度にはちゃんと書いたっぽいものを書こうと思ってこれを書いている……というのはあとづけで、複数あったブログを統合&引越ししようかなというのは前から考えていて、新しい暮らしもちょっとだけ落ち着いてきた土曜日なので実行に移したというわけなのでした。

 この記事より前の日付のやつは、2つあったブログの記事をとりあえずそのまま放り込んだ感じです。あとブログとはべつにtumblrに書いてた記事(タイトルに日付入りのやつがそれ)も並んでます。出自のちがう記事たちはカテゴリやタグが入り乱れてわけわからんだったので、カテゴリとかタグはぜんぶ消しました。できればちょくちょく短めのエアメールを書いていきたいけど、とりあえず鍋にカレールーを溶かしに行ってきますね。

心はたこやき

 特撮の感想書くのひさしぶり。
 今朝の仮面ライダーゴースト第30話「永遠!心の叫び!」に心を動かされて書いています。アラン様がかっこよかった。

 ゴースト、あら探しをしようと思えばいくらでも出てくるというのは正直なところ思っていて、いちばん気になるのはタケル殿もマコト兄ちゃんも「心」とか「魂」とか何回も言うでしょ、あれが気になる。えっそんなにむき出しの、愚直なまでの使い方をしていい言葉なの、ってひるんでしまう。たとえばウィザードで晴人が「絶望させない」って口にするのは個人的なトラウマとも結びついていたから、ある程度その言葉が口に出てくるまでの経路をトレースしやすい。けどタケル殿が「心を救いたい」みたいなことを言うのってもう個人の欲求を超えてなんだかもっとスピリチュアルな次元に突き抜けていくわけ。回を重ねるごとにその度合も増していく。
 そういう「心」とか「魂」とかを含む科白に、物語の展開とか、前後の文脈とか、タケル殿(たち)の生い立ちとか、意味とか、そういう経路では説得力を感じにくい。でも、なのになぜかダイレクトに心を揺さぶられる瞬間が何度かあって、それがゴーストの変だけどすごいところな気がする。演技や声や画面全体がなぜか不思議な説得力を帯びてしまう感じ。意味より速くダイレクトに声が飛び込んでくるというか。だから個人の性格とかはとくに似てないのだけれど、タケル殿を見ているとカブトの天道とか、ドキプリのマナとかを思い出させるところがある。指を立てるしぐさ一つで、完ぺきな笑顔ひとつで、その作品世界のぜんぶを掌握し、肯定してしまうみたいな力を思う。あるいはスイプリの最終盤で「ノイズを救いたい」と言い切ったキュアメロディの声と表情がよみがえる。

 今朝のアラン様がたこ焼きを食べながら敵をばたばた倒し、己の限界を超える場面も、もう完全に意味や文脈を置き去りにしてアラン様の一挙手一投足がそのまま彼の心を語っていた。ちょっと奇跡的なくらいエモーショナルで、うつくしかった。言葉にすれば「兄が父を手に掛け、信じてきた理想もゆらいでいたところに、温かく接してくれた親しい年長の友人が死んでしまった。こんなに痛む心ならばいっそなければいいと絶望しかけたが、意志を継いで生きていく決意を、戦って心の宝物を守る覚悟を新たにした」とかそういうことなんだけど、もうこんな冗長な語りではぜんぜん追いつけないでしょう。悩みぬいたからこそ自然に、考えるより先に振り絞ることのできる勇気というのがあって、それをアラン様のたこやき食べ変身という形にしてくれたゴーストはとても優しい作品だと思う。油断しているとこういうすべてのタイミングがぴったり調和した回があるから日曜の朝に特撮を見るのはやめられない。
(ちょっと余談。アラン様を見ていて誰かを思い出すなあ、と思っていたけれど、「日常」のなのちゃんだった。ロボットのなのちゃんは学校という外の世界にかよって、友だちができて、新しい世界をむきだしの生身でくぐりぬけて知っていく。あの温かい感じ。アラン様は人間の世界という学校に、ちょっとタイミングは遅れたけど通って、いろんなことを知っていく)

 ゴーストは毎回2コマまんがの連続みたいなテンポでどんどん出来事が推移していってハチャメチャ大混乱だよ、とも思うのだけれど、えっフミばあほんとに死んじゃったのえっうそ嘘、みたいなあっけなさは実はすごく現実っぽくて、だからこそ胸がざらついてしまう。物語や筋書きを俯瞰して見るのには向いていなくて、渦中からあの世界を見渡して追体験するのがこの作品の楽しみ方なのかもしれない。わたしたちの心(と書いてゴースト)は画面の向こう側へと飛んで行き、来週もまたあのたこやきを食べるだろう。アラン様の、そしてフミ婆の隣で。