みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

2016年末に奈良を旅した日記2

 (承前)

 旅先にしてはいつもよりぐずぐずにくたびれてないな、と油断していたらなかなか寝つけなかった。もう明け方かな、と思って時計を見たらまだ夜中で、そのまましばらく昼間に買ったばかりの歌集を読んでいた。少しだけ眠って、まどろみを振り切って外套を着る。朝の散歩へ。

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 東大寺の境内は霜が降りていて、霜の降りた草地を鹿は食んでいた。二月堂からは遠くまで、遠くの山の手前を飛ぶ鳥までよく見わたせた。そう、鳥の声がとてもよかった。境内も路地もいろんな鳥の鳴き交わす声がよく透って聞こえてきた。
 宿の中庭に半分に切ったみかんが置かれた巣箱があって、チェックアウトするときに聞いてみた。なんの鳥が来ると教えてくれたのだったかもう忘れてしまったけれど、尋ねて答えてもらったことを覚えていようとおもう。

 戒壇院で10年ぶりくらいに四天王像と再会したあと(多聞天が好きです)、せっかくこんなによく晴れたときに奈良にいるのだから、と山の辺の道まで足を伸ばすことに。桜井線の窓からは平らな地面とぽつぽつとある家、とおくとおくに長く続く尾根、ぜんぶが冬の日差しをしずかに浴びていた。隣のちいさな男の子が座席に立って窓の外をたのしそうに眺めていた。

 三輪駅。参道に並んだ屋台がぼちぼち初詣に向けた開店準備を始めていた。大神神社にお参りしてから山の辺GO! 時間をかんがえて一駅分だけ歩くことにする。

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 記憶よりもけっこう山道っぽかったので難儀したけれど、ところどころで眺望がとてもよい。歩いていると汗をかくし、立ち止まるとさむい。マフラーと手袋をつけたり外したり。すれちがう人がちらほらいて、ほやほやとあいさつを交わす。桧原神社にたどり着く。前川佐美雄の〈何も見えねば大和と思へ〉の歌碑をみつけておおっと思う。

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 まきむく駅までつらつら歩く。なんで歩いているのかよくわからなくなってきたけど、景色がでっかくおだやかなので、ああべつに生活とか達成とか人生とかいぜんに人間は呼吸をしたり歩いたりするのだなあと素朴なことをおもう。

 そのあとJRの奈良駅ふきんでお土産を買ったりする。大晦日の午後、京都へのみやこ路快速は空いていた。前の席に英語圏からの旅行の家族が座り、小さな女のこがときどきシートの隙間からこっちを見てきたのでほほえみかえす。京都でいっしゅん降りたらすごい人で伊勢丹の地下なんかとにかくすさまじかった。特に結論はなく家に着いて年を越した。去年と今年とか旅と日常とかほんとうは境目がないのにみんなしてなにか世界が書き換わったみたいな気持ちでいる。それはそれでたのしいけど、ほんとうにほんとうはすべてが地続きだし、どうしようもなく粘っこい地上の日々ごと旅だし、一度だって醒めたことはない。ことしもまたあした。

2016年末に奈良を旅した日記1

絵巻物右から左へ見てゆけばあるとき烏帽子の人らが泣けり

 /中津昌子『風を残せり』

 2016年の終わりに奈良へ行ってきました。

 12月30日、新幹線とサンダーバードを乗り継いで西へ。電車の中ではうとうとしたり「三人姉妹」を読んだりしていて、山科あたりで読み終えて(わたしも生きて行くのだわ……)としんみりしながらホームに降りる。しんみりしていたら棚にリュックを忘れました。駅の通路でコインロッカーを目にして、(あれ? 大きい方の荷物は?)と気づいて慌てて引き返したらすでに列車は出たあと。駅員さんに聞いてとりあえず忘れ物センターに電話をして、とりあえず京都で待機するかー、地下鉄とかで行けるところ……と思い直す。

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 朝、最寄り駅まではちらほら雪が降っていたのに、京都は気持ち良く晴れている。北陸のたまたま晴れた冬の日とは空の高さと青さがちがう感じ。乗り換えるはずの烏丸御池でまちがえて降りてしまい、御池通を東へ歩いていたら忘れもの見つかりましたの連絡がきてほっとする。とりあえず三月書房へ。

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 歌集を一冊買い、京阪三条まで歩く。京都の冬はひだまりのある冬。ひだまりのある冬があるなんてこの街で暮らすまで知らなかった。八幡市駅を通過するだけで胸がちりちりする。京橋でJRに乗り換えるとき、一瞬だけ大阪の地上を横切る。

 大阪駅の忘れ物センターのおじさんは無愛想だったけどぶじに荷物は帰ってくる。中身について具体的に細かく質問された。そりゃそうか。 

 どこ駅かもう思い出せないけれど乗り換えて近鉄で奈良へ。2ヶ月くらい前のじぶんが年末だからいい宿に泊まりなよ、と予約してくれた小さな良い宿はグッドルッキングルーム*1でしかもひとりだけどツインだった。日が沈まないうちにぜひとも散歩にいかねば! という気持ちで奮い立ち、まちなかのほうへ歩く。黄昏の猿沢池が魔法みたい。

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 奈良は京都より建物とか人とか風景の中のいろんな要素が密集してなくて、ぼんやり歩いていてもたのしいので良いなあとおもう。古本屋に入って文庫を一冊買う。近鉄奈良駅のほうへ移動して後輩氏とサシ忘年会を執り行う。『こいいじ』の話が通じるのをいいことに「でもわたしは人の気持ちがわからない冷血人間だから……」を連発してしまう。奈良漬入りポテトサラダとかがおいしかった。居酒屋を出てカフェで閉店までの30分だけパフェをつつきながら延長線をする。駅前で別れて宿まで20分ちょっとをゆっくり歩く。ペットボトルのお水がおいしい。

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 今年は仕事も変わってふたたびの一人暮らしになったけど、大学生だったときほど静かな時間やボーバクと過ごす時間は取れない。そりゃそうか。でも稼いだお金で旅をして、その旅先の奈良でボーバクとできているのはうれしい達成ではあるし、とはいえやっぱり隙を見つけてはボーバクと過ごすぞーと決意を新たにしたのだった。(2日目につづく)

*1:折しもtwitter上は叶姉妹コミケ参戦大喜利に沸いていた

関係性という幽霊、信仰という疼き ――新井煮干し子『渾名をくれ』に寄せて

 さいきん思うのだけれど、「関係性」って幽霊みたいなものだ。読者として作中の2人(以上)について、たとえば「お互いすぐ憎まれ口叩くけどラブラブ」とか思ったとしても、それって外側から、あるいは上空から観察して作り上げた解釈でしかない。現実の場合だって大差はないだろう。AとBを誰もが恋人同士だと認識していたところで、関係性のディテールは観察者の立ち位置によって変わるし、時間の経過に伴って1秒ごとに変わる(もちろん恋に限らず)。写真のネガにも映画のフィルムにも焼き付けられない不定形の白い影。当事者であるAとB本人すら、しばしばその幽霊に魅入られる。そのとき、Aが見ている幽霊とBが見ている幽霊の姿が異なるばかりか、BはAという一人を愛しているのに、AはBその人よりもむしろ「Bとわたしの関係」という幽霊そのもののほうを愛してしまうことだってある。度を超えて「関係性」に入れ込む態度は、目の前にいるはずの生身の相手の姿を見失わせる。触れているのはあなた、見ているのは幽霊。その食い違いに気づくのは、いつだって後になってからだ。

 新井煮干し子『渾名をくれ』(祥伝社)に登場するイラストレーター・天羽(あもう)は、けれどもそんな「幽霊」を見ていない。すくなくとも、見るまいと固く決意している。彼が見据えるのは彼の神様、人気モデルのジョゼだけだ。中学の入学式でジョゼを見つけて以来、天羽にとってジョゼは信仰の対象だった。ふたりは高校卒業後の上京当初から同棲しており、肉体関係もあるが、天羽は奔放なジョゼの生き方に干渉しない。潔癖とも言える意志をもって、天羽はジョゼに手を下さない。天羽の信仰は、ジョゼの絵を自分のためだけに描き続けること。見返りとか自分の望む姿とかを投影しはじめたら、神様ではなくなってしまう。だからジョゼのせいで起こる疼きを、天羽は決してジョゼの前で開示できないのだ。

 好きになった相手(恋に限らず)に僕はすぐにああしてほしい、こうしてほしいと(ぜんぶは伝えないにしろ)望んでしまうし、こんな姿をしていてほしいという欲望でこの目の見え方を歪めてしまうから、天羽の愛し方にとても面食らった。というか、それは愛だろうか。関係性という幽霊ばかりにかまけて相手の姿を見失うようなことは愛じゃない(すくなくとも愛し合うことじゃない)、それはわかる。ならばその逆は? 天羽はジョゼからなにひとつ奪わない代わりに、なにひとつ与えもしない。「信仰」とは「与えない」ことだろうか。一方で、ジョゼはすべてを与えたいし、天羽だけに奪ってほしい――。

 物語の開始時点で、ふたりの関係は致命的なディスコミュニケーションを抱えたまま、氷のように美しく凍結している。ジョゼの後輩モデル・剣(つるぎ)がふたりの暮らす部屋へ転がり込むことで、氷はすこしずつ、いびつに解け始める。ホラー映画のなかの目撃者としての剣が、天羽とジョゼが禁欲的に蓋をし続けてきた幽霊の姿を浮かびあがらせたのかもしれない。

 物語の中盤、ジョゼがいない夜、剣と飲んだ帰り道で天羽がひっそりと口にしたジョゼとの関係性のロマンチシズムは、幽霊と呼ぶにはあまりにも、クリスタルのように透明だ。

「もしぼくが嫌がるジョゼとブエノスアイレスへ逃げたら?」
「たまに写真を送ってほしい」
「ジョゼが迎えに来いって言ったら?」
「月までだって迎えにいくよ」(p.90-91)

 ここまで関係性についてばかり書いてきたけれど、言葉なんかで語れるのはせいぜい幽霊についてくらいだからだ。けれどこの作品がすごいのは、クリスタルを内側から粉々に砕きかねない心身の疼きを絵が雄弁に、偏執的に描き出していることだ。これはもう読んでもらうしかないのだけれど、がくがくとして美しい肉体の造形、瞳が帯びる尋常じゃない熱とその裏側に纏いつく憂い、その視線を受け流しながらも交わる空間そのものの密度、ぜんぶに圧倒される。とくに終盤、剣が部屋を出たあと、ジョゼが転んで鼻を怪我して「そと 外に こんな顔で出られるわけないだろ……」(p.120)と激昂する場面と、それに続いて、堅牢に築いてきた信仰を天羽がジョゼへの告白によってみずから崩しはじめる場面(窓から夜の明かりが差し込み、ジョゼは裸で立ち尽くして聴いている)がすさまじい。読み終わってしばらくはうずくまって動けない。

 BLを読むことは僕にとって萌えとか言ってられる場合じゃなく、たいていとても苦しくて、描かれている感情とか共感のレベルでのつらさももちろんあるのだけれど、この作品に関してはとくにこの正体のわからない「疼き」が胸を焼いて苦しいのだった。信仰とか愛とかについて、価値観がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて混乱している。だけどこの混乱をもたらしてくれたことを不思議とうれしく思う。ほんとうにとてもとてもつらいので、だからこそ何度も読み返す予感がしている。

 あとがきで作者は「信仰よりも難しいことを天羽にしてもらおうと思いました」と述べている。「信仰よりも難しいこと」とは、「ふたりで同じ幽霊を見る」ことではないだろうか。物語の最後、3人で小田原へ紅葉狩りに向かうべく乗ったロマンスカーの座席で、剣がもう紅葉の時期には遅い可能性を指摘すると、天羽は「ハゲ山見に行くかあーー」と締りのない油断しきった表情で口にする。かつてジョゼを迎えに行くことを夢想した「月」と比べて、小田原のハゲ山はあまりに卑近で身も蓋もないのだけれど、もはやふたりのためだけのものとなった「ジョゼ」という血の通う「渾名」のように、そこにはさわれる幽霊がいるのかもしれない。ハゲ山に紅く染まった葉を幻視して、それぞれが見た色を(あるいは言葉ではない手段で)かんぺきに教えあえるときが、ジョゼと天羽にも来るだろうか。来ることを願う。

渾名をくれ (onBLUEコミックス)

渾名をくれ (onBLUEコミックス)