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みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

人の気持ちは絶対にわからない

なんの脈絡もないけれど、ただのつぶやきです。

忘れられない出来事がある。

小学校の5年生くらいの、音楽の時間のこと。

そのとき、クラスみんなで歌の練習をしていた。

けれど、一部の子たちがまじめに取り組まずにいた。

ピアノ伴奏をしていた子が、泣いた。

そこで先生の、まあお説教が始まる。

「この子(伴奏の子)の気持ちがわかるひと」

当然、「わかる」のが模範解答だと無意識にも思って、僕を含む何人かは手を挙げた。

でも、先生の言葉に虚を突かれた。

「そんなに簡単に人の気持ちがわかるなんて言って欲しくない。先生はピアノを弾くし、みんなが歌ってくれない辛さはわかるけれども。」

感傷と叙情が違うように、同情と理解は違う。

さらに言えば、これはずっとあとから思ったのだけれど、先生の言っていたことも、やっぱり違うと思う。

極端に言えば、人は自分以外の誰かにはなれない。だから、誰かの気持ちなんて絶対にわからない。

生まれ持った能力も、身を置く環境も、その時までの歴史も、何ひとつ一致しはしない。あくまでも近似的にしか自分と誰かは重ならない。

だから、あくまでも近似的にしか気持ちなんて共有できない。

自分でもここまで言うと極端かな、とも思う部分はある。

だけど、哀しかったり、辛かったりする誰かを前に、簡単に「その気持ちはわかる」なんて言ってしまうほうが悪い時だって往々にしてあるはずだ。

本当に孤独なときは、自分以外の誰かにわかるはずなんてない、と思ってしまうから。

誰かの気持ちが「わかる」と言ってしまうことは、あくまでもどこかに自己満足を含むのだ、と半ば絶望的に気づく。

でもその時、「わかる」という姿勢だけで終らせてしまうのではなく、もっとその先に行く道を見出そうと思えるのではないだろうか。

わからないから諦めるのではなくて、じゃあ自分に何が出来るのか必死に考えること。

距離がゼロにはならないけれど、その気持ちにすこしでも近づこうとすること。

安易に「わかる」なんて言ってそこで止まってしまうのは、実は自分に都合の良い逃げ道なのだと思う。

わかる、なんて出来ないからこそ、誰かの気持ちに思いをはせて行きたい。