みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

いやだ…だけど、楽しむ

じいちゃんが死なないように撮ってる。そんなこと言ってるから、甘いと思われてるんですけど。

「死ぬに決まってるでしょう」なんて言われたこともあって、すっごいその言葉が怖くて。

そんなこと知っとるけど、そう言われたら、いやだ、死んでほしくないって思うんです。

(梅佳代、『広告批評』2008年1月号、p.121)

このインタビューのためだけに590円を払う価値はあるなぁ、と思う。

この部分がもっとも身に迫ってきたけれど、読んでいると全編通してどきっととする。

表現手段として、写真っていいよなぁとよく思う。

そりゃあ、吹奏楽やら短歌やらに比べたら、受け手の幅広さなんか段違いだ。

ほぼ誰にでも、直観的に受けとってもらえるところとか。

けれども、当然ながらどのジャンルにも葛藤は付き物なのだなあ、

表現者というのは、自分の中の病理を自覚しようとしている人たちだよなあと思う。

「そんなこと知っとるけど、いやだ」に集約されているように。

昨日は節分だったらしい。

一人暮らしももうすぐ二年目を終えようとしていて、年中行事からどんどん遠ざかっていくことよ。

スーパーで働いているので、季節感に触れはするが実践はまるでしない。

レポートからも逃れたので、楽器を吹くのが中心の生活にふたたび移行。

春合宿でやるアンサンブルのクラ五重奏とクラ四重奏、どちらも過去に吹いたことのある曲だ。

当時からの自分の成長がわかって嬉しい。

が、上手くなるほどに耳(聞く力)も成長するので、どんどん克服すべき点は出てくる。

そこで自分を追い詰めるのではなくて、むしろどんどん新しい面を磨けるのを楽しめばいい。

去年は割と楽器に関しては固く考えってしまっていた。

あるとき、楽団のバスクラOGさんの、「なんか萎縮している感じだね。せっかくいい音なのにもったいないよ」という言葉で目が覚める。

そうか、自分をわかってもらうのを、楽しめばいいのか。

吹奏楽をやるのも、あと一年切ったしなあ。

これは短歌に関しても同様で、昨年は大学の短歌会の会長職をやっていて、素直に楽しめていない節はありました。

ところが、平会員に戻ってからというもの、ふとした折に歌集をひも解く機会の増えたことではないですか。

上の方に書いたことと無理やりつなげると、表現に自分を走らせるものの切実さはあるのだけれど、同時に伝わったときの嬉しさを見失うとしんどいだけだし、

そのしんどさは音や作品に出るのではなかろうか。


最近、自転車を押して帰ってくることが多い。

部屋から大学へ向かう道が、行きは下り坂なのもあるけれど、なんとなく気分で。

ああ、今思ったが、暑いとあまりそんな気にならないだろうな。冬だからか。