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みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

水が産む水、魚になれない魚

ラパヌイの海の水

今そばに居るひとが好き水が産む水のようだわわたしたちって  東直子『青卵』

先日、『セレクション歌人 東直子集』を購入して、読んだのですが、

自分の琴線にもっとも強いちからで触れてきたのが、この歌でした。

うまく魅力を説明できないけど、すっごく好き。

なんだかわからないけど、妙に心にひっかかる。

僕の詩歌観では、そういう作品が理想です。

(それは読み手としてか、作り手としてか、両方か、と聞かれると、うーん、ですが)

人によって、「よくわかんないけど引かれる」ポイントってあると思うんですが、

上の歌で言うと僕の心に引っかかったポイントは、「水が産む水」のとこ、なような気がします。

ちょっと思い切って抽象化すると、「イメージの純化」に、僕は弱いみたいです。

上の歌を読んで、思い出したのが次の歌でした。

折ればより青くなるからセロファンで青い鶴折る無言のふたり  兵庫ユカ『七月の心臓』

この歌もすごく好きです。

鶴を折る行為を通して浮かび上がる「ふたり」の関係性よりも、

青いセロファンで鶴を折るとより青くなるという、

その「イメージの純化」に、どうしても目が行ってしまう。

言葉を並べて「イメージの純化」をはかろうとすると、

たいてい同じ語彙が繰り返されますね。

次の例は歌詞ですが、これもその一つの形かなぁ、と思います。

ケモノになれないケモノでも 優しくされたら燃え上がる  スピッツ『稲穂』

「きっとまだ 終らないよ」と魚になれない魚とか

幾つもの 作り話で 心の一部をうるおして          スピッツ『魚』

両者、「○○になれない○○」という形をとっています。

意味の上ではもはや○○ではなくなっているはずなのに、

わざわざ同じ語彙を繰り返すことで、受け取る側には○○のイメージがより強く印象付けられると思うのです。

前者の「ケモノ」は、明らかに男性性のメタファですね。

たとえばこれを、「ケモノになれない男」としても意味的にはそう変わらないのですが、

なんだかありきたりで物足りなくなる。そう思うのです。

こんな風に、ある語彙が効果的に繰り返されると、そのイメージの強度が増してゆく。

そうした言語表現にふれたとき、ちょっとくらくらするのです。

その感じが好きなのです。

…と、まあ思いつきと勢いでここまで書いてしまいました。

ですのであんまりまとまりがありませんが、

まあとにかく僕はこういうのが好きだなぁ、って、それだけなんですけどね。

ちなみに写真はイースター島のどこまでも青い海でした。