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みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

肩に乗っかっているもの

あの花は、乗っかっている――とそれだけで今はいいので、私は私の小でまりに、そのことばをもらったのだとおもう。そのことばしかくれないのなら、それがつまり紛れもないその花だという証拠ではないだろうか。私にとっては「乗っかっている」がたしかにあの花なのであった。こういうとき私は上機嫌になってしまう。もらいものは嬉しい。

  幸田文「白い花」/『雀の手帖』新潮文庫

 相変わらず自分は自分を裏切ってばかりなので(受動態では書かないぞとここで肩に力が入る)、その裏切った結果前に進めていなくて、もう期待したくない、そこからもう一段階悪化してなにもしたくない、にときおりなったりする。だから例によって行きづまった感じが拭えなくって、大きさはともかく頻度と、そしてどんどん漠然としていくから一体どうしようかと思う。

 それで自問してみるのだけれど、一体いままで何してきたんだよって、でもその答えは知っていて、「何もしてこなかった/いない」なのだった。

 そこから動けないのはこれもまた例によって、とっかかりからしてすべて自分自身で起こさないとだめだと考えてるところだと、なんとなーく気づいてきたところ。そういうひとりよがりなのは、現象としては例によって、なのだけれど、今回はこういう言い回しを引き出してきて把握しました。

 そうそう、取り入れれば良いのか。受け取ればよいのか。

 受け取るにしても後々のことを考えて、自分はきっとだめにしてしまうから、と思って躊躇しまうけれど、とりあえず受け取る瞬間にはそういう、後ろ向きな先見の明、はどこかにやっておいたほうが良い。

 っていう暫定的な結論です。そのためにどうするかとかはまた考えます。

 今日は四月にしてはとても風がつめたくて、基本的に晴れてはいるんだけれど雲の動きが早く、申し訳程度に濡れたなーと思ったら雲のその黒いところもすぐさま去ったりしていた。京都っぽい天気だと思う。北陸だと降るときはとことん降るし、寒いときはほぼ晴れないので。

 夕方家に帰るとき、今出川通りを東にのぼっていって、白川に突き当たったところで振り向くと、呆れるほど空がきれいだった。でも呆れなかった。呆れるには万全じゃなさすぎる。呆れるにはあまりに足元がおぼつかない。

 金色も茜色も深い藍もぜんぶ含んでいて、くっきりと飛行機雲が短いのも長いのも同時多発的に思い思いの方向に伸びていって、そうして空が丸みごと、おおきな星座板みたいにずれていく感覚があった。桜の花は九割五分散ってしまったけれど、疎水べりのある一本のその一枝の先のほうに固まって咲き残ったりしていて、見苦しくない末端の意地だなあと思った。さいきんはなにもしていないのに肩が凝ってしまう。文句なしに健やかなどではないけれど、それでも空がきれいなことには変わりがなく、しかし胸を刺されて苦しくなるような美しさでもなく、なぜだか不思議にふわふわと嬉しかった。

 かかとを当たり前に一歩ごとに浮かせられたので、この感覚を覚えていたい。

 

 (きょうの写真、東向きhttp://twitpic.com/4n4asq)

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 さて、もう少し具体的な近況報告をすると、まず、京都の別の大学に進学した弟と暮らし始めました。

 といっても、もともと住んでいたアパートに空き部屋があったので、二人で二部屋を使っています。新しいほうはほぼ寝るだけの部屋にして、もともと僕が住んでいた方でご飯食べたりくつろいだりしています。

 ここから衣笠まで通うなんてとんでもない!地の果てじゃん!と思っていたけれど、グーグル先生の地図に聞いてみたところ、実家から高校までとさして変わらないらしく、弟は自転車で通っています。これは住み慣れたから距離感覚が変わったとかいうレベルではなく、なんというか風土に身体を侵食されていると思う。四方が山だからどこにも行けない閉塞感がどうしてもあって、特に上洛するたびにそれを強く感じていたのだけれど、どうやらものさしが土地にあわせたものに変わっていったみたい。ふっと顔を上げたときに、山の向こうは言うに及ばず、その手前を見るときまでも、焦点を近くに合わせるようになったみたい。そりゃあ無性に海も見たくなるなと思う。

 あとは、、、なにを書こうとしたか忘れました。

 というか報告すべき近況ってなんだったっけ、というのがよくわからなくなりました。

 

 お風呂にゆっくり浸かってきます。シーズンオフではありますが、どうかお風邪など召されませぬよう。