みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

オーディオ台の雛人形

春の雪地に触れず消え濡れて往く吾も現象の一つにすぎず  富小路禎子『柘榴の宿』

 今年の目標と年末年始のことを書こうと思います。

 大晦日に年越しそばを啜りながら、なんだか大層イベントっぽい起伏がある風に見えるけどそれは見せかけで、本当はいつもと変わらない午後10時とか11時とかなのだよなあ、と意図して冷めようとしていた。冷徹になるという意味ではなくて、ここで無為に波風を立てるよりはカームダウンしていた方が長い目で見たら楽だよなあ、という自衛策を取っていたわけであって。年末年始に祖父母の家へ行って従兄弟一家も来ていて、となると、他人といるより安穏と過ごせる一方で、家族の中だとみんな遠慮がなくなるからけっこうハイにもなってしまう。そういうのに振り回されると新年の幸先が良くないよなあと思うように最近はなったみたいだ。ああまた一日がすぎて次の日が来るなあ、という構えでいたほうが、トータルではつらくない。

 考えてみると1月は結構苦手な月で、どうしてかと言うと暦の上での境界をまたいだことでなにか一段落した気になって油断しているところへ、すぐに冬休みが明けてそれはもう退っ引きならない現実へと放り出されるから、だと思う。かと言ってあまり先のことを考えすぎるのもやっぱり良くないなあ、ともまた思う。このごろ折に触れて松岡修造はえらいなあと思いもする。記憶が曖昧なので正確な引用ではないけれど、「過去のことを思っちゃダメ。未来のことも思っちゃダメ。今ここを一生懸命生きていれば、生き生きするぞ!」というのは、蓋し名言である。言い回しそのものというよりかは、これに抜群の説得力を持たせる人物像がすごい。どうして松岡修造を褒めているのやら。暦は人を宗教的にさせる。とにかくたぶん今の僕の課題としては、日常にソフトランディングすることが大事だよなあ、というのが言いたかった。

 2011年の最後に読んだ散文の本は岩波文庫の『鏡花短編集』で、ふっと異界へ拐かされて、結末部分では帰ってくるという内容の小品が二編隣合って並んでいて、その二編の間あたりで年をまたいだのだった。それとまったく関係なく偶発的に起こったことなのだけれど、今回、滞在中の寝室に使う祖父母宅の2階を母と妹が気合を入れて掃除をし、無造作に出しっぱなしだった雑多な非日用品のほとんどが押入れに仕舞われ、その例に漏れた雛人形たちがオーディオ台の上にぞろりと鎮座することになった。僕の寝る布団はそのオーディオ台のすぐ横に平行に敷かれ、雛たちのそばで眠りに就く幾日かだった。雛たちは過去のことや未来のことを思うだろうか。今生きているだろうか。死んではいないと思うけど。それはそうと仮面ライダーなでしこちゃんかわいかった。いい映画だった。

 今年は知的に健気に生き生きできたらいいなあとおもう。知的に健気にというのが今年のスローガンです。昨日決めた。それに先立って、今シーズン初めてみぞれが降ったくらい、去年の11月くらいから2012年の目標はなんとなく決めていました。

 ・よく噛んで味わって食べる

 ・胸を張って視線を上げる

 ・他人を理由に使わない

 ・「あわよくば」で動かない

 ・コンビニで立ち読みしない

 だいたい一年の目標っていつも抽象的すぎて、クリアできたかの判断が曖昧になるわ達成感もないわで新緑のころにはすこーんと抜けてしまうので、今回はできるだけ具体的にまたはフィジカルに、そして毎日実行できる(ここ重要)感じで行こうという方針です。毎日思い出してチェックするー。できるだけやるよ。

 あ、あと早寝早起きもちゃんとしたいですね。Eテレの0655を6時55分にテレビの前で正座して見ることを平日の習慣にしよう。例外の日を少なくするのが大事。

 ここまで書いたけどでも本当は猫になってごろごろしたり気まぐれにどこか行って戻ってきたりもしたいです。うー。