みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

やめないことと続けること --「TARI TARI」4話を視聴して

 TARI TARIの4話「怒ったり 踊ったり」を見て思うところがあったので、ちょっとどうしても一言だけ。
 コンドルクインズのおじさまが主人公(たち)に「音楽はやめられないよ。やめる・やめないはないんだよ」みたいな意味のことを言っていた。良い科白です。超いい科白です。おかげでまんまとかさぶたを剥がされましたともさ。

 たしかに本当に好きだったらやめるやめないとか考えられないよねって思う!個人的な話をすると、高校大学と吹奏楽をやっていたのだけれど、卒団してからはもうまるきり吹いていない。やっていたころは、やめるっていう選択肢はたまに思わないでもなかったけれど、でもやっぱり実感はまるでなかった。
 だけど実際問題、どこかで「続ける」か「続けない」かを選ぶことを回避できないのもまた事実。「続けない」がすなわち「やめる」じゃないにしても、でもやっぱりいつかは、生活する上でどうしても続けるのが困難になる。または、続けることに積極的になれなくなる。「やめたくないけど続け(られ)ない」なんていうのは、ごくありふれたことだ。それをかいくぐりかいくぐりして「続ける」ことをつづける(くどくて変な言い方だけど)にはかなりのエネルギーが必要で。
 「続けない」ことを選んだっていう記憶は、時間が経つほど、「やめた」ことと区別がつかなくなっていく。「やめない」ためには「続ける」ことがほぼ唯一の条件だ、と言っていいかもしれない。冒頭に引いた科白みたいな意味では、「やめる」はないかもしれないんだけど、そう思いたい気持ちは本当なのだけれど、それでも一旦「続けない」方へ傾いてしまったら、「続ける」方へ戻るのはとてもとてもエネルギーと運と決意が必要になってしまう。
 生活に障りがあっても、技術が伸び悩んで苦しくても、それでも「続ける」ことの方を常に選べるかどうか、というのがすなわちその分野への適性の有無だ。やめるやめないなんてないよって言い放てるかどうか。これって音楽以外にも創作とかいろんなことに言えると思う。

 4話の時点で和奏は音楽を続けている状態にはないけれど、ぎりぎりでやめていない。彼女が音楽を続けることをもう一度明確に選ぶまでがこれから描かれていくのかな、それってとてもどきどきする。

 と、ここまでぐだぐだ書いたのは、まあ要するに、ほんとはもう一度楽器吹きたいなあ!とても!(でも実際きついなあ!)というやり場のない気持ちを突かれてしまったからなのでした。おわり。