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みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

鎖と橙

 橙色は知っているけれど橙は見たことがない。柑橘類なのだろうな、というのはわかる。実物はともかく、たぶん写真か映像かあるいは何かの挿絵で見たことくらいあるだろう。いや、実物を見たこともあるかもしれない。でも、覚えられない。しっくりこない。最初に色の名前として知ったことばだから、赤とか青とかがなにかの形や手ざわりをもったモノと対応してはいないのと同じに、そのままの名前のモノがあるというのは、どうも納得できないのだ。
 朝の果物は金だという。朝に食べるのがいちばん適しているよ、という意味だけど、それは果汁だけを飲むのにも当てはまるだろうか。しかも、濃縮還元の。まあオレンジジュースなんだから、いつ飲んでも金だろう、ということにする。オレンジは柑橘類の中でもいちばん金に近い。それにしても、はやく来ないだろうか。わたしはいま、駅ビルの高いところのアトリウムにいて、ベンチに腰掛け、先輩を待っている。通勤の時間帯だからこんな無駄に高いところの見晴らしの良いスペースになど誰も来ない。紙パックジュースの直方体の細さが頼りない。
 あの人はいつも細い金の鎖を首に提げている。しゃらしゃらの、華奢な金の鎖のネックレスだ。華奢であることが何よりの武器であるといった感じの、かわいらしい人。先輩だけど思わず抱きつきたくなる。わたしの方がすこしだけ背が高い。でも味覚は大人で、いつも甘い飲み物しか飲まないわたしをからかってくる。いちおうむきになったりすねたりする振りをするが、そんなときはいつでも内心とてもうれしい。ごめんごめんって笑うと金の鎖がしゃらしゃら揺れる。わたしがもっと見た目からなにからこの人よりずっと頼りなかったらよかったのに。華奢がちゃんと堂に入っていて、しかもいじわるさはこの人よりほんのわずかだけ少ないといい。そればかり思う。ほんとうにいつも、そればかり考えてしまう。
 ベンチから立ち上がる。手すりから身を乗り出して吹き抜けを見下ろしてみる。人がたくさんわらわらと飽きもしないでおのおののからだを運んでゆく。みんなでこぼこした足取りだ。こんなんじゃあの人を歩き方で、金の鎖の揺れ方にそっくりなしゃらしゃらと華奢な歩き方で、わかってしまうじゃないか、って気さえする。わたしに見つけられる前に来てくれないとゆるさないから。見つけてくれないとつまらない。あなたが、わたしを。それまではこのまま紙パックジュースを大きな吹き抜けに宙吊りにして、これみよがしにストローを吸っていてやるのだ。
 と、息巻いてはみたものの、細い紙パックはすぐに空になってしまった。でもまだしぶとくずごごごってわざと音を立てて吸っている。どうしてこうあっけないのだろう。つまらない。先輩は頼りないけどあっけなくはない人だ。わたしは頼りなくてあっけない。わたしは、つまらない。
 背中が熱い。後ろに太陽があるのだ。すこしずつ昼に近づいていっている。じりじりと背中が熱い。いい加減紙パックを捨てに行こう。さようならかつて金の液体の器だったくしゃくしゃのもの。ゴミ箱に放るとすこんと底に当たる音がした。金の立てる音にしては、高くて空っぽだと思った。
 そう、金だ。橙と同じように、「金」だってそのままの名前のモノがある。でも残念ながら私は塊の金を見たことがない。金箔ならあるが、あれはモノというより色そのものの方に近いだろう。一度口に含んだことがあるけど、舌触りも味もあったものではなかった。
 あの人のネックレスの鎖は、じゃあその中間だろうか。塊ではないし、概念でもない(と思う)。口に含んでみたら、わかるだろうか。わかるとして、わたしはわかりたいだろうか。(しゃらしゃらと揺れているのを見ているだけで、幸せなのではないか。)
 顔を上げると、いよいよ強くなりはじめた陽ざしがまぶしかった。人を待つのには、どうもこの場所は向いていないな。そもそも、わたしはあの人をなんで待っていたんだっけ。なんの用事だったかとかそういうことじゃなくて、どうして待っていたいのだろう。来るのと来ないのと、どっちがうれしいのだろう。なんだかもうぜんぶよくわからない。
 でも。うれしいのかなんなのかもよくわからない今の状態は、あっけなくない気がする。このぐずぐずした感じは、たぶん水を注がれる前の濃縮果汁だ。ならばそのうち干からびて、金色のしゃらしゃらになれるだろうか。あのネックレスの鎖よりもっと軽くて薄い、口に含んでもわからない金箔みたいなもの。そういうものになりたい。きっと、だからこうして待っているのだ、わたしは、あの人を。それだけは確かだと思うのだ。

(よくわからない百合片思いのようなもの。 お題は恋愛お題ったーより、『「朝のベンチ」で登場人物が「ゆるす」、「オレンジ」という単語を使ったお話』)