みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

歌の声、「私」の地平

 『島田修二歌集』(国文社)をひさしぶりに開いた。たとえば次のような歌に、あらためて心を動かされる。

もの書きて畢るにあらぬこれの世の浄福に似てとほき夕映『冬音』

雨降れば甕にしづけく水溜るこの確かさに生きたきものを『渚の日日』

 一首目、「あらぬ」「似て」と何重にも断言を避け屈託を見せるもの言い。二首目、まるで宿命のごとく重力に従う雨滴への憧憬を、苦々しく漏らす結句。これらの歌の背後からは、個人の生の重みが、ひたひたとしずかな圧となって伝わってくる。しかし、私の心を揺さぶったのは、ほんとうに言葉の響きが伝える圧なのだろうか。歌集を通読することで、作品よりも作者の境涯そのものに感動したのでないとどうして言えるだろう――。近代以降の短歌に接するとき、いつもこの種の不安がつきまとう。

 同書に収録の塚本邦雄による作家小論「星夜の辞」こそは、この不安を最も雄弁に述懐するうめきである。作者側からも、読者側からも。

戸籍上の私は作品の何処にも棲息しない。否生存を許さない。現身の即虚妄の「私」は、しかしながら作品中の「私」にあらゆる悲惨と栄光を負はせようとした。人間、この崇高にして猥雑極まる存在がそのやうなクレドで律し切れるものではない。律し切れぬ不如意に時として私は唇を嚙んだ。

 今回読み直すまで、この小論は、作者の私生活と作品とを無批判に結びつける態度への呪詛である、という印象が強かった。だがどうやら、ことはそんなに単純ではない。吉川宏志はこの小論を引いた上で、次のように述べる。

いくら消そうとしても、作者の生活の影が作品からにじみだしてくることに、塚本は絶望している――いや、絶望しつつも、言葉と生身の人間が結びついていることに、ひそかなよろこびを感じていたのではないだろうか。塚本ほど「私」を否定しようとした歌人はいないが、「私」を否定すればするほど、存在がたしかになっていく「私」を、逆説的に愛していたようにおもうのである。

「仮定法の読み・複線的な読み」*1

 そうなのだ。そもそもこの小論の文体からして、塚本の身もだえを引き写したかのような熱を帯びている。短歌の場合はここまで直接でないにしろ、作中の「私」を消そうと試みる作者も同時にまた「崇高にして猥雑極まる存在」である以上、消そうと試みる手つきが「人間」の痕跡を作品に残さないわけにはいかない。生活者と仮構の主体、あるいは虚と実の相克の上に――いやむしろ、相克のさまそれ自体において立ち現れる「私」を読むことこそが、短歌を読むという実践ではなかったか。

 と、一旦は納得しかけながら、やはり私はひきさかれる。歌の息遣いに作者の身もだえを読み取ること。それは我々にとって逃れがたく、ときに豊かな方法であるにしても、別の道もあるはずだと思えてならない。端的に言えば、私は同時代の歌も、新古今集を読むような遠さと親しさで読み、また詠みたいのだ。

忘れめや葵(あふひ)を草に引きむすび仮寝の野べの露のあけぼの  式子内親王

 一読、どのような状況で歌われたのかよくわからない。斎院時代を回想した歌だが、その知識がなくとも、上句で歌われた行為の、まじないめいた感じは鮮やかに伝わってくる。その呪術性は、下句の「の」音の反復により増幅される。なにより、憂いを帯びつつも湿り気のない初句切れの嘆息は、瞬間、人間社会の重力から自由である。

 しかしもちろん、新古今時代の歌に感じるこのような慕わしい清潔さは、その修辞の巧みさばかりでなく、作者と私が生活者として同じ地平に立っていない、という安心感に拠る部分が大きいのだろう。逆に言えば、近代以降の歌の「私」が立つ地平は、生活者としての私と、時代も社会も地続きでありすぎるのだ。そのことがときに歯がゆい。この地平の上では、社会生活を営み苦悩する身体としての「私」が、どうしても優位を保っているように思える。

まどろまで眺めよとてのすさびかな麻のさ衣月に打つ声  宮内卿

 いったい誰が誰に「眺めよ」と語りかけているのか。その声を聞いて「すさびかな」と詠嘆するのは誰か。この歌では、行為者・観察者としての人間は背景化されている。どちらの声もなかば宙空に浮きながら、砧を打つ音と溶け合ってたゆたう。心と言葉をなかだちする依り代としての身体性をも、歌の「私」はたしかに備えているはずなのだ。 

しののめに待ちびとが来るでもことばたらず おいで 足りないままでいいから                                            井上法子『永遠でないほうの火』

〈おかえり〉がすき 待たされて金色のとおい即位に目をつむるのさ

 2016年に刊行された著者の第一歌集(書肆侃侃房)から引いた。「来る/でも/ことばたらず」の急迫調から一転して呼吸をおき、おそらく自身もこわがりながら、それでも手を伸べている声。遠く尊い者への希求と、背中合わせの諦念が入りまじった、気高くしずかな宣言。井上の呼吸は、虚実の相克による「私」の現出という前提を相対化しているように思える。

 社会生活を営む私の身体を、どだい私は拒みきれない。だが、作者が唇を噛みつつも、歌の「私」の声には、どこか地上から離れた涼しさを纏っていてほしい。この愛憎とたのしく踊るすべを、どうにか模索していきたいのだ。

 

初出:「いしかわ文芸 第27号」石川県文芸協会(2017年3月)
(紙幅の都合上泣く泣く削ったところもそのまま残したディレクターズカット版です)