みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

「今日」のこと ――仲田有里さんの歌について(1)

OLが一人一本傘差して祭りも昨日終わって今日は  仲田有里『マヨネーズ』

 

 交差点をみおろしているような画を想像する。信号が変わって、ぱらぱらと渡り始める数人の女の人。「祭り」はお神輿や屋台の出るようなのじゃなくて、彼女らをながめる〈私〉にとってのなにか個人的なささやかな祝祭なのではないかという気がする。結句が「は」で終わっているわりには、余情や愛惜のしめっぽさがない感じ。「一人一本」という言い方も、たとえば「一人に一つのかけがえない命」とかいうような押しつけがましいニュアンスはなく、あたりまえのことなんだけど現に目の前で一人一本ずつ差している、という認識をそのまんまのっけたみたい。さみしさや愛おしさになる手前の、ふわっとした空白のような手ざわりの歌だと思う。

 

 この歌を含む仲田有里さんの30首連作「今日」が発表されたのは2006年で、2017年に歌集『マヨネーズ』(思潮社)が出るまでのあいだ、「今日」は生きる支えだった。というと大げさなのだけど、折にふれて思い出してはそらんじて、感情の浮き沈みの手前にある凪のような、ぼうぜんとしたような感じをだいじに思ってきた。「今日」が歌葉新人賞で次席を取った2006年に僕は大学に入り、短歌サークルに入った。はじめてほかの人の短歌連作をいっぱい読むという経験をしたのが歌葉新人賞で、候補作の歌たちにはその頃の記憶と結びついて忘れがたいものはほかにいくつもある。けれど、普段はみえなくてもいちばん体に棲みついてしまったみたいなのが、「今日」だった。

(以下、仲田有里作品の引用はすべて連作「今日」から。表記は歌集『マヨネーズ』に合わせます)

 

薄い葉が冷たくなってる冬の朝君の口から白い息が出て

 

 歌集ではおそらく季節の関係で別の連作に入っているけれど、2006年版の連作「今日」では冒頭の歌。作歌のセオリー的には、「冷たい」「冬」「白い息」は意味的にかぶるから3つも使わないと思う。どれかを削って心情みたいなものを入れてみたりとか。でもこの歌は、こうとしかならないっぽい。「君が白い息を吐く」とかじゃなくて「口から」「出て」という、ぶっきらぼうな感じ。「薄い葉」「冬の朝」「君」「白い息」の間に遠近感がないというか、ぜんぶ対等にこの人はみている、ように思える。

春の日に手を見ておればとっぷりと毛深しわが手夕闇のせて  大森静佳『カミーユ

 遠近感とか奥行きっていうのは、たとえばこういう歌にはすごくある。視点に近いところに手があって、手の甲に産毛が生えていて、そのずーっと向こうでは空が暮れていって、その夕闇も視点人物もぜんぶ包む「春の日」が初句に置かれる。

 

 「今日」にもどります。

カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

 変な歌だと思う。「雨」と「水」の重複もそうだし、「カーテンの隙間」「隙間に見える」「見える雨」とダブらせながら認識をスライドしていくような文体。口語短歌は動詞の終止形と連体形が同形だからときに意味を確定しにくくて、ではこの歌ではそれをあえて〈逆に利用〉しているかというと、そうじゃないっぽい。降るのは雨で、ベランダの手すりを濡らしてるのは水だよな、とも言われてみれば思うし、たとえば眠る前とかの、ぼんやりとしている反面、意味とか文脈とかを捉える力とは逆のほうこうに変に意識が研ぎ澄まされている、あの感じ。

 

てかてかと光った葉っぱがこの道の向こうに縦の信号の横

駐車場の鳩を通って6月の24日の風が吹いてる

昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある

本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある

 目の前のそこにそれが〈在る〉ことをあたりまえに見過ごしたりしないで、すごくちゃんと確かめる。立ち止まって確かめないでは、それはそこに〈在る〉ことができない感じ。その独特なテンポ。1首め、〈私〉と信号と道と葉っぱには奥行きがあるはずなのに、どこか地図の上の道案内みたいな、同じ平面にあるみたいな存在のしかた。2首目、鳩がなにかの文脈上の特異点なのではなくて、鳩〈において〉駐車場、風、6月の24日、のぜんぶが今ここに在る。3首目、「白く光って」の比喩やニュアンスの上塗りのなさがすごい。歯磨き粉がある。これは間違いなくあるよな……。4首め、時間的な前後関係も、やっぱり同じ平面にあるみたいに並んでいるし、あまつさえ「植木や壊しかけのビル」という空間的なモノたちとも同じ平面にあるのでは?と思わせてしまう。

だけどどうなのだろう。ほんとうはこっちの認識の仕方のほうが本来的なのかもしれない。だからこそ、僕はこれらの歌たちをふいに思い出して、ふわっとした空白に無意識の深い深いところで、十年来、安堵させられてきたのではないか。

 

 すり鉢で豆腐を擦ってぐちゃぐちゃにしてからあなたの口に入れたい

マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる

夜空とか映画館とか指先が見えなくなると会いたく思う

 そしてそれは、人と人との距離のとり方や思いの寄せ方についても、同じなのではないか。押し付けたいでも味わわせたいでもなく、ただ「入れたい」。悪意とか好意とかとも、ただ「一緒に生きる」。私のはじっこが見えなくて、感情より先に、会ってなにがしたいとかではなく、ただ会いたいと思う。

 

 ここに入れるのが良いのかわからないのだけれど、去年の7月に「さまよえる歌人の会」で『マヨネーズ』のレポーターをしたときのレジュメの一部に加筆して載せてみます。

 

〜レジュメここから〜

 抗いようもなく過ぎてゆく日々をわたしたちは惜しんだり悼んだり愛おしんだりする。日々のなかでふれあう人や物、それらにまつわる記憶もふくめて、わたしたちは今日を悼む。

手に手をとって向き合ったままでいようよ
そのまにも
二人の腕の橋の下
永遠のまなざしに疲れた波が過ぎて行き

 

夜よ来い 時鐘(とき)よ打て
日々は去り行き私は残る

ギヨーム・アポリネールミラボー橋」より)*1

 けれど、惜しんだり悼んだりできるためには、〈時は流れ去る〉ということが自明のこととして前提されていなければならない。人や物がうつろうことを嘆くには、〈今・目の前〉あるいは、〈あのとき・あの場所で〉が、川の水のように、流れ去りながらも、一つの統合された姿をしていなければいけない。

 

 でも、時の流れや目の前の世界の像はよく見ればみるほど分裂するし、ぶれてしまう。その姿に愕然としているうちに次の愕然、また次の愕然がくる。惜しむための立脚点を定められない。

 

 ふつうは、目の前の世界やものごとを認識するとき、最大公約数をとって妥協する。ほかの人と共有できるレベルにするために、嘘をまぜて像を固着させる。〈見たまま〉の歪みをいちど捨て、〈それっぽさ〉を物や人や空気にになわせるのが、人が生きるための知恵であり、かけひきのシステムである。

 

 だけど、ぶれたままの像を、その姿に愕然としながらもなお見つめているのが、仲田有里『マヨネーズ』の短歌たちである。

 

ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まようパレット  やすたけまり『ミドリツキノワ』

 やすたけの歌においては、ニワトリのみを前景化させて扱うことへの素朴な懐疑が示されている。ただし、「かかなくていい?」と迷っているので、どちらかに価値の重みを置かなければいけないとは思っているようだ。

 仲田の歌においては、「網」も「ニワトリ」も「パレット」も、どこか等価なものとして目の前にあるような、そんな見え方をしているのではないか。

 

〜レジュメここまで〜

 

さいごに。

 

バスタオル2枚重ねて干している自分を責める星空の下

 これより深くみずからをえぐるような自傷をほかに知らない。けれど同時に、これより優しいみずからの慈しみ方もほかにないのではないか。自分は決して悲劇の主人公ではなくて、世界には内も外もなく、2枚のバスタオルも、物干し竿も、ぜんぶこのベランダにひとしくあるのだ。

 青空のような夜空のベランダで洗濯ばさみが少し欠けてる

 

(つづく)(次回は「今日」以外の『マヨネーズ』の好きな歌とかについて話します)

 

*1:安藤元雄入沢康夫渋沢孝輔編『フランス名詩選』岩波書店、1998年、p.265

リズと青い鳥、または、渡り廊下は飛び立つために

 だいぶ日が空いてしまったけど、映画『リズと青い鳥』の感想メモです。すごい映画で、一年分の集中力を2時間に注ぎ込んでしまった。

 

 冒頭の朝のシーンの足音。リズの足下の花、教室の地べたに座るフルートの下級生と椅子に座る希美たち先輩、音楽室の床にみんなで膝をついて敷くマット――本作では執拗に天と地の対比、というより〈地〉を意識させる作りになっている。さて、地面に縫いつけられていたのは誰で、縫いつけていたのは誰でしょう?

 

 本作は基本的に学校とそのほんの延長上の空間だけを描いているので、あの映画でいちばんファンタジーに聞こえるのは「北宇治」っていう校名・地名だ。「コンクール」「本番」という単語は頻繁に口にされていたけれど、「地区大会」「府大会」という語は慎重に避けられていた。「全国」も優子部長が今年の目標は全国で金だと決めましたと言及していたシーンだけ? 少女たちにとって自身の将来との時間的な距離感が不確かなのとパラレルに、空間的な遠近感も意図的にぼやかされているみたいだった。学校=鳥かごと、その外側。このふたつ以外の分け方でどうして少女たちは世界を把握できよう。

 

 『響け!ユーフォニアム』のテレビシリーズでは何度も出てきた印象的な渡り廊下が、本作ではたった一度、みぞれが音大受験を勧められたすぐあとの場面で出てくるのが象徴的。天と地の間のふたしかな場所にある細い橋は、進路を決めあぐねている彼女たちの今そのものだ。

 渡り廊下の少女たちが、べつべつの方向に飛び立つために一人で立つことを引き受けるまでの物語。

 

 吹奏楽経験者としてもみていてしにそうになった。あの日々の感触を内側からなぞっている手ざわりがまざまざと。はじめにソロを合わせてみるときのすこしずれたピッチ、夏紀がエース級に上手い希美をうらやましげにかっこいいと言う声の感じ、その希美をはるかにしのぐ高さで飛べるみぞれの演奏。希美が絞り出す「みぞれのオーボエが好き」の、彼我に絶望しているのと同じ強さで抱く最大限の敬意、その裏返しの嫉妬……

 けれど動機がなければけっして才能は陽の下で輝けない。だからやっぱり「みぞれのオーボエ」は希美がつくったものでもある。たとえ隣で同じだけの強さで輝けないとしても。

 

 あとこれはほんとに蛇足なんだけど合奏のときバスクラの位置がえらい下手側だったけどなぜだろう。ほかの低音と遠くてさびしいよう。