みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

人魚デコルテ(2014.09.11)

 おさかなになりたい。なぜならおさかなは肩から冷えたり足先から冷えたりすることがないからだ。さっきお風呂に浸かっていたら浸かり始めてまもなく肩が冷たくてほんとにもう秋なんだなあと思いました。思いましたことよ。三月まで一人暮らししていた京都の部屋はユニットバスで、しかも浴槽を上から見たかたちが長方形じゃなくて台形なのだった。つまり片方の端に向けて幅が狭くなってくわけ。建物もそんな新しくないからすぐ冷えるし、せまいバスタブのなかで体育ずわりしたりおしりを前にずるって滑らせてがんばって肩まで浸かったりとかしてた。寒かった。あの日々ほどではないけど今日ももう肩が冷たかった。でも肩が冷たかろうがなんだろうがお風呂がいちばん考え事がはかどるので困る。あとお散歩。お風呂とお散歩だけしていれば原稿なんてじゃんじゃん書けるのでは、と信じてやまない。お風呂ではさまざまな決意ができる。さまざまに最強の未来を思い描ける。お風呂上がったらあれしようこれしようって体の奥底から湧き出す力をじっくり実感できる。でもそれ体が芯から温まってるだけですから。残念。とはいえ長く浸かってむしろ冷えてきたとしても、過去に対して絶望的にならないのでお風呂は不思議。悲しい過去にうっとりすることもなく、ただじんわりと胸や腰やみぞおちのあたりの感じを思いだす。お風呂えらいね。おさかなはお風呂にも入れないし散歩もできない。人魚なら散歩はできないけどお風呂には入れるのだろうたぶん。だけど人魚はおさかなとちがって肩が冷える、肩を冷やしうるのでした。歌えないのに肩は冷えるっていうのはとてもかなしいことな気がする。存在としてとてもかなしいあり方な気がする。なぜだかなんだかそう思う。っていうのを理屈で考えるとつまり人間は(っていうか僕は)肩が冷たいのを補ったりあがなったりするために歌っているのか、っていうことになるけど、肩が冷たいのは悪いだけのことでもないので、肩が冷たいのをうけがったりおもしろがったりするべく歌ってもいいってことになる。めでたし、かどうかはわからない。わからないので熱い紅茶を飲んでいます。寝る前のカフェインはあまりよくないかなって思いつつ夜の紅茶は血が通う感じする。肩にも足先にもないはずの背びれにも。人魚と夜にお茶したい、と一瞬ちょっと切実に考えてしまった。そういう一瞬を差し出してくる油断も隙もない惑星に住んでいてきょうもおおむねたのしかった。おやすみなさい。(2014.09.11)