みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

吉岡太朗一首評

歯みがきをしているわしは歯みがきをされとるわしにつづくほら穴  吉岡太朗『ひだりききの機械』(短歌研究社

 

 掲出歌を含む連作「ほら穴」の主人公は、どうやら介護の現場で働いているらしい。その文脈からすると、「歯みがきをしているわし」は被介護者の歯をみがいてあげている現在の私のことであると読める。その私もいつかは誰かに介護してもらう側になる可能性を十分に持っているのであり、現在の私と未来の私の連続性を「ほら穴」に喩えているのである――

 右のような読みは一見かなり説得力があるのだけれど、ほんとうにそれだけだろうか。私には違和感が残る。だってその場合、「ほら穴」は「わし」(の身体)の比喩としてよりも、時間(具体的には老年へ到る年月)の比喩としての比重が大きすぎるではないか。

 初めてこの歌を読んだとき、自分自身の歯をみがいている場面なのだと思った。私たちはふつう、たとえば「眠いからもう歯をみがいてくるね」とは言うが、「眠いからもう歯をみがかれてくるね」などとは言わない。しかしじつは、自分の歯をみがく行為は、歯をみがかれる側の、客対の私がいなければ成り立たない。掲出歌において、口腔の奥へとつづく闇に歯ブラシを挿し入れながら、「わし」という個人の意識は〈みがく者〉と〈みがかれる者〉に分断されつつ、けれども一つの同じ身体という「ほら穴」の両端に、逃れがたく縛りつけられている。歯みがきという実践が通常、鏡に自己の像を映しながらなされることも踏まえると、この分断と同一性がより喚起力のあるイメージとして迫ってくる。

 とはいえ、同じ私という身体に棲む〈みがく者〉と〈みがかれる者〉との呼び分けは、常識的にはナンセンスだろう。だが、ナンセンスだと思うその感覚こそ、私たちが〈みがく者〉つまり意図をもって力を行使する主体を、行使される側より無意識的に優位に置いてしまっていることの証左ではないだろうか。

 ここで第二句「している」と第三句「されとる」の口調の差異に注目したい。「されとる」の方が肉声に近く、「している」の方がすこしお行儀が良い。というかそもそもこの歌、「AはaにつづくB」という構文の知的な処理の仕方や、定型にぴったり納まる韻律など、修辞面では端正でお行儀が良いのだ。だからこそ読者は、一首を読み進めて一人称「わし」や「されとる」と遭遇し、息づかいのゆらぎに体臭を嗅ぎとり、たじろいでしまう。微差かもしれない。しかしその微差をこそ吉岡はすくい上げようとしているように思えてならない。

 掲出歌はもちろん介護の場面とも読めるのだけれど、その場合でも「ほら穴」という比喩を時間だけでなく身体性にもできるかぎり引きつけて読みたい。目の前の老人にしろ、衰えた将来の私にしろ、単なる遠い他者ではないのだから。優位を保って一方的になにかをしてあげればいいだけの相手ではないのだから。介護を必要としない今の私の身体にだって、常に「されとるわし」は同居していて、「しているわし」をたじろがせる力を持っていることを、忘れるべきではないのである。

 

初出:「スカシカシパン 金沢・鏡の会現代短歌アンソロジー2016」