みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

本棚と銀の観覧車(2015.06.27)

 じぶんがいくつなのかほんとうにまったく見当がつかない。世間的には1987年生まれの28歳っていうことになっているらしい。伝聞でしか言えない。わたしによって生きられた時間はぐにゃぐにゃに折れ曲がって進んでいるし、断絶もしたし、とにかく一様でない。ましてや計量なんてできない。計量といえばさっき体重計に乗ったら50キログラムを切ったままでした。服を着たままだったし、しゃぶしゃぶ食べ放題から帰ってきた直後だったし、身長は172センチです。なんだかここ2年くらいは炭水化物あんまり食べられなくて、晩ご飯のときもあまりおかわりをしなくなった。思春期以降、おかずというのはご飯を食べ進めるためにあると信じて疑わなかったのに、今ではその逆で、いろんなものを食べて一杯だけごはんがあればいいなとおもう。そういう意味ではちゃんと加齢を体感できるのだけれど、でも不可逆なものとは限らないんではないかとか、この変化ってどこかで断絶があってたとえばある日寝て覚めたらこうなってたんだったような気もしないでもないし、あやふやすぎる。つまり過去のじぶんと比べてさいきんはお米を欲しない身体である、と判断するときの過去のじぶんっていうのが、現在の自分が仮構したものでしかないでしょう、みたいな。うまくいえないけど。『ハチミツとクローバー』は大学に入った年に読んだ、いつの間にか森田さんも追い越してむしろ野宮さんたちの年齢に近くなった、けど青春スーツ「再」装着とかそういうんじゃなくて、わたしはわたしの人格を瞬間ごとにランダムに本棚から抜き取って生きていて、年齢なんてそのときたまたま指が選んだ巻数にすぎないのでしょう? みたいな。森博嗣はVシリーズ(とあとスカイ・クロラシリーズ)が好きで、Vシリーズは高校生のときに読んだので、すぐ年上の練無と紫子に心惹かれて読んだ。し、今もまだ彼らは僕よりすこしだけ先の時間を生きている。後日譚であることを匂わせる短編も何年か経ってから読んだりしたけれど、そうじゃなくて大学生の練ちゃんとしこさんが常にすぐ前のけっして触れられないところを歩いている。ことしのGWは体調を崩していてどこへも行かず、近所のニトリで本棚を買ってきて組み立て悦に入りながらすごした。木の匂いがかなりつよくしていて、でも薄れていくのだろうなということもわかっていて、過去や記憶や未来を組みかえながら忘却しながら諦めながら慈しみながら本をいろいろに並べた。じぶんの生きた時間やこれから生きる時間なんてそういう風なあり方でしかこの世に存在できないのではないのか。対外的なものとして開示している年齢はせいぜい背表紙みたいなもので、本の中身はわたしにしかできない順番でアクセスするしかなくて、アレンジするしかなくて、統御することはできない。この春から妹が神戸で暮らすことになり、引越しを手伝いに行って以来このあいだ久しぶりに彼女の部屋を訪ねたのだけれど、その出発前にふと思いついて中井久夫『清陰星雨』を荷物に入れた。神戸のことも書いてあるよ、と言って妹に渡したその本は、たしかむかし春合宿の最後の日に三月書房で買って、でも一年くらい寝かせてそれから寝る前や眠れないときにすこしずつすこしずつ読んでいったのだった。こうやって分けることができてうれしい。じぶんがいくつなのかわからない感覚はどんどん強まっていくし、かつてはめまいを覚えたりもしたけれど、いまはむしろこの乖離のために安堵できている。新しい本棚の木の匂いのなかで読み終えた最初の本は柳川麻衣さんの『ロータス』で、最後の章でたどりついた屋根裏部屋のにおいをたしかに僕も嗅いだ気がした。本棚の上にはきのうもらった観覧車が乗っていて、暗くなった窓に銀の体をうつして、ひかり、まわっている。(2015.06.27)

忘れて滅ぼす観劇記

今はまだこのぼくはぼくのもの、そう、あなたのものです。そうですとも、恋しいあなたのものです。それなのに一瞬間で――分れて別れてしまう――たぶん永遠にね――いや、ロッテ、違う――どうしてぼくが滅んでしまうことがあるだろう。どうしてあなたが滅んでしまうだろう。ぼくたちはここにいるんだ。――滅ぶ――何だ、それは。からっぽな言葉だ。意味のない響きだ。ぼくの心にとっては何の感じもありはしない。
『若きウェルテルの悩み』ゲーテ高橋義孝訳、新潮文庫、p202-203(斜体はほんとは傍点)

 三月の終わり、東京に劇を観に行きました。「アムリタ5 忘れて滅ぼす」荻窪小劇場です。その感想を書きます、といいたいところなのだけど、劇の感想というより劇をみて考えたことについて書きます、になりそう。ところで荻窪とてもよいところでした。最初の夜には咲きかけだった桜が滞在中に満開になった。駅から路地裏を歩いて行くと東京なのに明かりが少なくて星とか、あと白い月がよくみえた。

 役者さんたちが、声と身体はそのままに、いろんな名前を通過して何度も出会い別れなおす、そういう舞台だった。合計四回観たのだけど、初回のあとに出演者のひとりに「(内容が)つらくなかった?」と訊かれて、「つらかったけど想像してた感じのつらさではなかった」とこたえた。というのも、筋書きつまり過去から未来へと連なる一本の線、を追わなくてよくて、誰かひとり(の連続した人格や境涯)に感情移入しなくてよくて、かえってみやすかった。でも(だから?)つらかった。舞台には水が張られていて、最前列・下手側の席ともなると水面が覗き込めるほどの(サロメのまつげの一本一本がみえた!)近さ。ときおり舞台を行き来する足が跳ね上げる水滴がとんでくる。暗さのせいもあって、あの場そのものが自分の内面とつながるような変な感覚。じぶんの身体は覚えていて、でも意識の底に(目を背けながら)沈めていた感情? 情動? 記憶? 果たされなかった欲望? とかそういう名づけられない心の破片が、劇を観ているうちにてのひらに載っていて、触覚でその正体がわかった。そういう感じ。

日記より。
「そう、わたしは殺されたかった。でも死ねなかった。彼女のために/せいで、せめて死にたかった。でも死ねなかった。彼女は僕を殺すどころか、憎んですらくれなかった。離れていっただけ。〈忘れさせてくれないのなら、どうして殺してくれなかったの?〉……その問いだけがぐるぐる頭の中をめぐっていた。暗やみの中をめぐっていた。ロッテが〈私を神聖視しないで〉みたいに言うところもつらかった。最後の暗転の、〈でも忘れられなかった、滅ぼしきれなかった〉場面で泣いていた。照明がともって、水面に自分の欲望をようやくきちんと見て取ることができた。こんなに時間が立ってからようやく、初めて」

 あっそうか殺されたかったのか、っていう気づきは、でも実のところかなり穏やかにやってきて、落ちてからずっとあとになって気づいた憑物だから、だとしても、やっと認めて名づけることができて、これからちゃんと忘れられるのだろうなと思った。いまさら。絶対に一生許さない、ってずっと思っていて、なのにいっぽうで、苦しいからすぐにでも忘れたかった。どちらともを大事に抱えて手放せなかったから、だからあんなに引き裂かれてつらかったのだ。

「そう、わたしは殺されたかった。生きる言い訳にされるくらいならどうして憎んでくれなかったのだろう。それがほんとうに、ほんとうに苦しかったし、悲しかった」

ダブルキャスト両方みた! 在/不在とか拒絶すること/受け入れることとかのコントラストのつけかたが違う感じでおもしろかったです
・四回も観たのでさいごには出てくるみんなに対して「ばかだけどかわいいやつめ」みたいな気持ちになったんだけど、百輭(ひゃっけん)先生だけは一貫してグロテスクに感じて興味深かった。クルツの腕をとって「猫か。猫なのか」って言ってるところとか。
・水が張ってあるので足下ばっかりみちゃう。水の深さとかズボンの裾の折り返す長さとかが変わっていってた? ワンピースの裾から水滴が落ちてくのがきれいだった。
・好きだったところたち。あやちゃんの人がやる気なさそうにカレー作ってしょうくんの人がうきうきしてるところ。「恋の翼を借りてとんできました」「俺は何を……」。サロメが服や髪の水を絞るところ。ヨカナーンロミオとジュリエットの行く末をまくし立てるところ。
テネシー・ワルツきくと涙がでるようなからだになってしまった。

 初回の上演を見終えてなんだか興奮して飲み下せなくて頭ががんがんしながら駅へ向かう途中で、一緒に観に行った人が劇場に忘れ物をしたことに気づいて引き返した。一度はまっすぐ表通りを帰っていって
、引き返して、劇場でぶじに忘れ物を受け取ったのち、なぜか「さっき(開演前に)きた道をもどりましょう」ということになった。ざらざらした春の、まだすこし冷たい空気が不思議に鮮やかに印象に残っていて、「忘れて滅ぼす」テーマについて考えるとき、きっと決まってこの夜道を思いだす、予感がしている。

 みたび日記より。
「たましいに過去も未来もない」
「忘れられなくてもほろぼして、おやすみの向こう側へ行くこと。こんどこそ手をはなさずに」

 おやすみなさい。またあした。

ゆびさきがもどった

 この人の感情を害することなしに、わたしの知っているわずかなフランス語の単語でもって、あなたの美しいお国はわたしたち亡命者にとっては砂漠でしかないのだと、いったいどうすれば説明できるのか。この砂漠を歩き切ってわたしたちは「統合」とか「同化」とか呼ばれるところまで到達しなければならないのだ。当時、わたしはまだ、幾人もの仲間が永久にそこまで到達できぬことになろうとは知らなかった。

 (アゴタ・クリストフ堀茂樹訳『文盲』白水社、2006年、p.63)

 来年の目標は「五感をめいっぱい使う」「粘って勝つ」「執拗に読みまた書く」です。

 ことしはほんとうにほんとうにいろいろありすぎたので除夜の鐘をききながらだばーっと振り返ってみます。

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