みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

短歌を始めたころ(1)

「そっか、じゃあ今は君がシリウスを吹いているんだね」とK先輩は言った。

 二〇〇四年の十二月、奈良は斑鳩でのことだった。寒々しい田んぼの間を並んで歩きながら、噂にだけ聞いていた同じ担当楽器のOGと、初めて会ってそんな話をした。シリウスというのはK先輩が部のバスクラリネットにつけた名前だった。そのときまで二年ちかく吹いてきた楽器に名前があって、名付け親が目の前にいるのが、不思議に思えた。

 母校の高校には「万葉大和旅行」というへんな行事がある。よりによってクリスマス前後に二泊三日で奈良に行き、複数のコースに分かれて見て回る。希望者のみ、せいぜい二十人前後なのだけど、わざわざ参加しようという生徒は歴史オタクか仏像萌えか、そのほか、なんらかの酔狂さを持っていた。手弁当で駆けつける卒業生のリピーターも多い。K先輩は三つ年上で、つまり僕と入かわりに高校を卒業し、京都大学に進んだ。

 「シリウス」という名前を教えてもらった場面ばかりが鮮やかすぎて、ほかに何を話したのか、ぜんぜん覚えていない。寒くて、よく晴れていた。法隆寺中宮寺を見終えてから、法輪寺法起寺のほうへと、遮るもののないがらんとした地上を歩いていた。そのときK先輩と話したのが、漠然と興味を持っていた京大に行こうとほんとうに思ったきっかけで、意識下の直感では、たぶん、その場でもう決めていた。直接大学の話をしてどこに惹かれたというわけではなくて、ただ、なんだか憧れてしまったのだった。

 

 短歌を始めたころのことを書こうと思いたち、まず頭に浮かんだのが、なぜだかこの場面だった。

 

 奈良から帰ってきて年が明け、春休みの定期演奏会に向けて放課後にシリウスを吹く日々が過ぎた。試験も終わった三月のある日、学期末の古典の時間は消化試合の様相を呈していた。そんなとき、だしぬけに前後編で二コマ、短歌の授業があった。

 当時、わがクラスの古典を担当していたのは〈式子先生〉だった。式子先生の名前の由来が式子内親王だということは四月当初の自己紹介で聞いていたのだけど、先生が短歌を読む人だというのはそのとき初めて知った。

 俵万智『短歌をよむ』から「カレー味のからあげ」のエピソードの紹介があったり、いくつかの短歌穴埋め問題(「ミックスベジタブル」かなあ……でもそうすると音数が合わない? いや、合うのか?? ……という経験を通して句跨りの概念を知った)を出題されたりなどした。 

 そして式子先生はこれも俵万智の『あなたと読む恋の歌百首』からいくつか短歌を紹介し、おのおのが選んだ一首の鑑賞文を書いた。

 このときに出合って衝撃を受けたのが水原紫苑『びあんか』からの一首だった。

 

われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる  水原紫苑『びあんか』

 

 短歌ではこういうこともできるのか、とびびった。なんの言い訳をしなくても、見たまま、心が経験したままを、見たとおりに言い切っていいのだと知って、世界が変わった。

 授業では最後に自分で一首を作って、それを記した紙をまわしてコメントしあった。そのとき作ったこの歌が、たぶん作ろうとしてちゃんと作った始まりの歌。

 フェルマータ恋は任意の長さなら傷付けたのは俺だね、ごめん

 

 これより前だったかあとだったか忘れたけれど、家にたまたまあった角川文庫の『もうひとつの恋』を手に取った(ブックオフのシールがついていた)。俵万智の短歌(ときに多行書き)に浅井慎平が写真を添えたその本を、繰り返し読んだ。この一冊で句切れ、句跨り、句割れ、などなどの定型の使い方を学ぶともなくだいたい学んだように思う。

 

アブセンス ぽろんとピアノは鳴りはじめ
あなたがいない私がいない

 

デジタルの時計を
0、0、0にして
違う恋がしたい でも君と

 

俵万智『もうひとつの恋』

 

 それから一年とすこし、高校生のうちに、たぶん両手で数えきれるくらいだけれど、たまに短歌を作った。短歌をずっと作りつづけることになるとは、このときは考えていなかった。六月に部活を引退してシリウスを後輩に託した。九月の創立記念祭が終わると、あとは受験へとまっしぐらになる。記念祭が終わった日、ノートにこう記した。

 

 この夏は終る制汗スプレーのあと一回を使えば終る