みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

土と氷のあいだのにおいと銀の靴

――私は
北の善き魔女(グリンダ・ザ・グッド)*1
親切なともだちの蜘蛛(シャーロット)
ライ麦畑のみはり番

そういうものになりたかった

ただ きらきらときれいなものだけを 差し出せるような

やさしいだけの存在に  でも

(鳥野しの『オハナホロホロ』祥伝社、2012年、p.75-77)

 さっき帰ってきて夜9時のニュースでフィギュアスケートの映像をみてやばい羽生結弦さんこんなん人間ちゃうやろって思って、そのあと前回の冬のオリンピックから4年も経ったのかよ、とがくぜんとした。大学受験のときに荒川静香さんが金メダルを取って、つぎはまわりのみんなが卒業するタイミングで自分だけどんどん置いていかれるような気がしながら織田信成さんが演技中に靴紐切れたけどまた滑ったのをみて、その4年後はこんどこそ人の2倍の時間かけて大学を離れる春、京都にいた最後の春先で、羽生選手が金メダルを取ったのでした。人生の節目に冬のオリンピックがあるみたいなイメージが、春先にやるから余計に、あって、だけどこんかいの4年間はなにもせずにただただ流れ落ちてしまった時間みたいな気持ちになっている、のが今。きっと、ていうかぜったいそんなはずはないのだけれど、どうにもこうにも。

 4年前のじぶんのツイートを検索してたらそうそう、あの季節にはつめたい空気にやわらかな陽が差す今出川通を「なごり雪」をくりかえし口ずさみながら歩いていたなあというのを思い出した。(京都にくらしてはじめて、冬にもきもちよく晴れる日があって、ひだまりのある冬が世界にはあるのだと知った。北陸とはちがって。)それから、あの2月には「お気に召すまま」を読んでいたらしくて、昨晩「十二夜」を読み終えたところだったのでほほうおもしろいタイミングじゃないの……って思ったんだけど、なんのことはなく、4年前は卒業をひかえて大学の図書館使えるうちにだらだら趣味の読書をするぞーと思って木下順二訳のシェイクスピア全集を何冊かだけ読んでたので、とくにシンクロニシティとかではないのだった。(だらだら趣味の読書をするならべつに大学図書館でなくてもよいのではと思われるむきもあるかもしれませんが、窓からのながめが好きで、22時まで開いていて、合計するとどれだけ居眠りしたかわからないあの場所が空間として好きだったので、だらだら趣味の読書をする贅沢をさいごにあじわっておこうとおもったのよ。)

 ところでどうして今「十二夜」を読んでいたのかというと、昨年の晩秋くらいから鳥野しの祭りが(自分のなかで)始まっていて、『オハナホロホロ』で言及されていたから(主人公の一人・麻耶が高校のときにヴァイオラの役をやったエピソードがあって)。手許にある『オハナホロホロ』の1巻はまだ連載が続くって決まるまえだから(1)って書いてなくて、そういうタイプの1巻は特別感があって好き。ずーっと2巻以降は読んでなかったのだけど、去年になって思い立って読んだら今まさに必要なおはなしだった。生きていると、誰かとしゃべったり遊んだり暮らしたりしながら生きていると、中くらいのめでたしめでたしはきっとそれなりに訪れて、だけどめでたしめでたしのあとも容赦なく地続きにつづいていく日々をそれでもだれかとともに生きていく、みたいなことはとてもとても困難だ。1巻の時点でみちると麻耶とニコはなんとなく軟着陸のめでたしめでたしにおさまって、だからこそ続きを読むのがこわかったのかもしれない。めでたしめでたしだと思った場所はつぎの瞬間嵐にさらされはげしくゆれる甲板で、それでも隣の誰かと同じ船に乗る決意がどれだけむずかしくて、だからこそいとおしいのかということ。いつまでも〈かわいいゆうちゃん〉ではいられないゆうたが船であり嵐であり雲間の光でありはるかへ渡る鳥でもある。そう海、海の比喩をなんとなく使ってしまったのはやっぱり5巻の海芝浦駅で別れる場面がいままでみてきたどんな場面よりかなしくてうつくしかったから。海芝浦駅にかならず行きたくなった。できれば晴れた日に。会社でつかっているMacの壁紙を海芝浦駅のいろんな時間の写真にして、1時間おきに切り替わる設定にしてしまったくらい。それくらいあたまに焼き付いて離れない。ねむいまま書いていたらさすがに冗長になってきてしまったのですが、とにかくとても勇気をもらったので、『オハナホロホロ』はぜひとも読んでくださいたのむ。

 漫画の作中で(とくに作中人物の口からじかに)引用されていた作品を読むのはなんともいえない楽しさがあって、『嵐が丘』と「鹿鳴館」とあと『赤毛のアン』は志村貴子経由で読んで、なかでも『青い花』で上演される「鹿鳴館」は井汲さん視点からも上田さん視点からもあーちゃん視点からみてもそれぞれの状況や心情と絡まりあってめちゃくちゃやばいんですけど、これはいつかちゃんと書きたいなあと思っています。さいきんはほかに『オズの魔法つかい』もじつは初めてちゃんと読んで(劇とか映像作品とかであらすじは知ってたけど)、『オハナホロホロ』の1巻でかかとを3回あわせるおまじないが出てきたのと、あと四宮しの『銀のくつ』はタイトルにもなっていて、この漫画もとても好きだったので。『銀のくつ』は幼稚園児のジュンくんを中心に、ジュンくんのお父さんと、ジュンくんの前でもいつも鳥のきぐるみをけっして脱がずに生活している「お母さん」のなんてことない日々が語られていく。「お母さん」にはお姉さんがいて、そのお姉さんが「ドロシーはばかよ 世界中どこへでも行ける靴で 家なんかに帰るなんて」*2と口にして本を投げ捨てる回想のシーンが1話めの冒頭で、そのせりふがみょうに頭に残ってしまった。半分同意したいし(だってどこへだって行きたい、できればひとりでいたいし同じところにとどまっていたら魂が死んでしまうきがする)、もう半分はばかみたいだとしてもほほえんで自信をもって銀のくつのかかとを3回あわせられるようになりたい、みちるや「お母さん」みたいに、っていう気持ち。

 すごいなんだかほんとにとりとめがなくなってきたのでそろそろちゃんと寝るための準備をしますね。今日はずっと最寄り駅に置きっぱなしだった自転車に乗って帰ってきた。雪がなくなって地面が見えてきていて、眼鏡が曇るのでマスクをはずしたら春のにおいがことし初めてした。春のにおいは土のにおいなのだな、と思った。

 

*1:「"南"の善き魔女」の誤りと思われる

*2:四宮しの『銀のくつ』幻冬舎、2016年、p.4

2017年末から2018年初の日記

2017年12月29日(金)晴れ→途中は雨、琵琶湖のむこうは靄→くもりはれ

 7時に目が覚めてごみ出し、雪かき、そうじ、荷づくりを怒涛のいきおいでこなす。朝はたまごかけごはん、昼はおにぎりとみそしる。りんごとゆずも。

 サンダーバードで眠る。イヤフォンで吹奏楽を聴く。

 JRから地下鉄に乗り換えるには地下から行けばいいものを、やはり京都タワーを見たくて上から行く。

 三条のJEUGIAは管楽器売り場が3階になっていて、4階から外が見えなくなっていた。寺町通のアーケードを上から見下ろせて好きだった。

 じつは入ったことのなかった三条のLIPTONへ。なんとかのパッパルデッレ(キンプリでみたやつだ!と思い注文)、洋梨とキャラメルのタルト、アールグレイをいただく。鏡でお店の中が広く見える。そのあとおすすめされた姉小路のカフェでプラムエードとピザパンをいただく。2階の窓から静かな通りがみえる。細くまっすぐな路地を歩いていると、ひとつ向こうのパラレルな通りは別世界みたいで、何年か前になにかの打ち上げとかで御幸町通のお店にいた自分や、あるいは誰かとあてどなく歩いている自分が、いままさにみえない向こう側にはいるのではないかという気がしてくる。

 三条大橋を渡るとき、京都の冬の雑踏だ、どうしようもなく京都のさむさだ、と思う。ジャンカラで夜を明かして三条大橋から朝焼けを何度見たことでしょう。でも回数だけならきっとおそらく言うほど多くなくて、印象が記憶のなかで乱反射しているだけ。

 

12月30日(土)はれ

 5時半くらいに目がさめて、もういちどうとうとして、9時前に宿を出る。動物園を対岸にみながら疏水沿いを歩く。持ってきたインスタントカメラで鳥の写真をついついたくさん撮る。白川丸太町の喫茶店でカフェオレとシナモントースト(うすぎり)をいただく。うすぎりと言っても5枚切りか4枚切りっぽい。トーストにバターを塗って粉シナモンをふっただけのやつ。そうか甘くなくてよいのか、と蒙を啓かされる。丸太町通をのんびり過ぎていく人や車がへいわ。

 錦林車庫まで歩いて、バスで出町柳へ。合流地点の右岸側が工事中で、堰き止められて一部干上がっていた。ぎりぎりの時間だったけど下鴨神社にがんばってすばやくお参りして、駅へ引き返す。猛禽の声がするのが出町だなあと思う。

 待ち合わせにちょうどぴったし間に合って、総勢4名でとりあえず新しくできた出町座へ。新年の準備をしたい人たちで商店街はにぎわっていた。さるぅ屋カフェでバーガーを食べたりいろいろしゃべったりする。そのあと河原町今出川ミスドで総勢5名となり、僕以外はそのまま帰省という感じでわかれる。

 出町柳から近鉄乗り換えで西大寺までSさんと「『にこたま』の終盤に出てくるお蕎麦屋差さんは現実にはいない、いません!」という話などをする。

 奈良だ。去年とおなじ宿に泊まる。晩ごはんは教えてもらった中華屋さんがやっていなくてベトナム料理を食べる。べつにそう決めてたわけでもないのだがこんかいの旅はノンアルコールだなあとおもう。帰りにバス停から宿まで小声で「オリオン座」をうたいながらあるく。星がほどほどによく見える。

 

12月31日(日)くもり、はれ、金沢は雨

 朝の散歩。ちょっと霧雨だけど傘は差さずに。鹿の毛並みが黒っぽくてたくましい。二月堂からみる盆地はやはりいきをのむ。朝ごはんはかんぺきで、このために一年生き延びたと思う。ひよこ豆とカリフラワーとオクラの温かいのとか、皮を剥いたプチトマトをなんらかのビネガーで良い感じにしたのとか、舌で果肉のわかるジャムとか。チェックアウトのときにスタンプをもらう。奈良だけで2泊とかもよいなと思う。

 近鉄奈良駅で荷物を預けて興福寺の東金堂をみる。日光菩薩月光菩薩の四肢がなめらかでよかった。どの国からきた人もみんな鹿に夢中でわやわやしていて、なんだかうれいい。

 斑鳩へ。13年ぶり(たぶん)。法隆寺は空間と建築がそもそもめっちゃ見事で、うおーテンションぶちあがる、と思わず口にする。前のときは印象に残らなかったけど、夢違観音像に釘付けになり、絵葉書も買う。白鳳期の仏様に好きなのが多い。隣の中宮寺までみたら引き返そうかとも思いつつ、でもせっかくなので法輪寺法起寺もぜえはあ言いながら歩いてまわる。空が広い。山が遠くぼんやりとかすんで、だけどたしかに世界を囲んでいる。

 近鉄奈良駅で大仏プリンと柿の葉寿司を買い、特急券を買って京都へ。激混みの伊勢丹地下でお弁当購入ミッションを成功させ、サンダーバードに乗る。

 金沢駅まで父に迎えにきてもらい、家に着いておそばとおさしみを食べる。日付が変わる前にaikoが歌っている姿をみて、年が明けていいかげんとてもねむいのでねむる。

 

2018年1月1日(月)雨

 ゆっくり起きる。着替えて林檎をむいて孤独のグルメをみる。おせちとおぞうにを食べる。最後のジェダイをみにいく。祖母を訪ねる。夕飯のすき焼きのあと、閉店時間間際のイオンのゲームセンターに母と妹と行ってエアホッケーをしたり、母がどうしてもほしいと言ったでかいくまのぬいぐるみを3play500円で3人のリレーによりまさかまじで取れてしまい、くまもいれて4人でプリクラを撮る。ワンコインで取れたので「わんこ」と名付ける。相棒をみながら膝の上で日記を書きながら林檎と梨をたべる。

短歌日記(2013.11.29)

2013年11月29日(金)

 夕方のニュースの受け売りなんだけど、この冬一番の寒さらしい。(ほんとうはなにもかも受け売りなんだけど。)さもありなん、さも、さ、さむい。

 2限の演習のあと、S先生の部屋まで付いて行って先行研究の論文をお借りする。S先生は指導教員である。「笠木は地元、北陸だっけ? 俺が好きだった小説家で金沢大学にいた古井由吉って人がいてさ、昭和何年の豪雪を……」ああ、38年ですね。「うん、それを題材にした『雪の下の――』っていう小説がさ、」聞き取れなかった。雪の下の、何ですか? 「『雪の下の蟹』。カニさんな」ああ、蟹。それから先生は煙草に火を点けた。「蟹」という一語を聞いてしまったことで、件の小説の題名は一つに確定してしまった。「雪の下の湖」や「雪の下の瑠璃」や「雪の下の猫」、そのほかあらゆる可能性は、正解〈かもしれない〉身分を一瞬にして奪われてしまった。なんたる権力。(ほんとうはなにもかも受け売りなんだけど。)でも、だとしても、このときの先生の「カニさん」の言い方や、煙草の赤い火を、きっとこの先も覚えている。そんな気がする。ここにしかあり得なかった受け売り、ではだめだろうか。

 出町柳の橋を自転車で渡る。またもやよく晴れている。上下が水色と灰色に分かれた、ふっくらした雲がたくさん浮かんでいる。川が穏やかにきらめいている。静かで、でも豊かな、洗練された弱奏部のようだった。こうやって言葉にすることで嘘を混ぜてしまいながら、(ほんとうはなにもかも受け売りなんだけど、)でも覚えていようと思う。 

 

お布団でひもとく高野文子かなまもなく部屋の灯を消す未来

 

初出:『京大短歌20号』(2014年3月)
※11月の終わりから12月の最初の日までの10日間、後輩の北村さん
と並行して日記+短歌を書く企画より。10日間のうちの8日め。京都に住んでた最後の冬。