2019年
1月
牡蠣にあたったまま奈良で年越し。二年参りをしようと思っていたのに果たせず、意地でホテルの朝ごはん(新年バージョン)を食べ、春日大社に初詣をする。
文学フリマ京都で短歌同人誌「遠泳」、スピッツ短歌アンソロジー「短歌ウサギ」が出る。インフルエンザでダウンする。
2月
なにしてたか覚えてないです。
志村貴子『こいいじ』の最終巻。読み返して思ったけど、この物語は徹頭徹尾春さんをめぐるおはなしだったなあ。
3月
覚えてないです。
「ケムリクサ」よかった。ルパパトも超良かったねえ……(今年のクリスマス鮭焼いて食べた)
4月-5月
溶連菌感染症にかかる。
連休前半は東京へ。ツイッターのお友だちでずっとお会いしたかったはるなぽーさんと、あいちゃんと3人で上野の純喫茶丘→スカイツリーの幾原邦彦展へ。さらざんまい! その夜はトーキョードームシティの傘のやつに乗ったりする。次の日は池袋で妹と『響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』を観て、ミルキーウェイへ。妹と別れて短歌の友人と池袋駅前のタカセ→東京駅でベトナム料理を食べる。地下街が滅んだあとの文明の遺構のよう。夜行バスのなかで令和を迎える。
後半は富山に大学の短歌会の後輩たちが遊びに来る。十数年ぶりのコスモアイル羽咋がめちゃアツかった。ことしはスター☆トゥインクルプリキュアだし、宇宙きてる。
6月
庭の梅を漬けた。
7月
咳がめっちゃ出る→咳喘息と診断され、ダニアレルギーが発覚→ふとんクリーナーを買う→なかなか治らん→じつは肺炎だった→有給がしぬ(入院はしなかったけど毎日点滴しにいった)
ふとんクリーナーめちゃ埃とダニ取れるし、隙を見て布団干さなきゃという焦りがなくなるし、あと色が変わって埃やダニがいっぱいいるか教えてくれるのがたのしいので飼ってよかったです!!!
アイリスオーヤマ 超吸引 布団クリーナー ダニ・ちりセンサー搭載 たたき 約6000回/分 シャンパンゴールド KIC-FAC2
8月
覚えてないです。
9月
大森靖子のライブに行ったり、壁にかけるタイプの自カプ(杏さやタペストリー)を買う。
10月
歌集を出しました。
11月
梅田の観覧車に乗ったり梅田スカイビルに登ったりする。
柳川麻衣さんと交換日記を始める。
12月
雨晴海岸に行ったりとか。
年の瀬に奈良と京都を旅する。
ことし見たり読んだりしたもの
映画
・聖の青春(配信)
・仮面ライダー平成ジェネレーションズForever
・名探偵ピカチュウ
→ ポケモンのいる世界だー!ってなった。ポケモンへの愛ある映画
・響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ
・ワンダフルワールドエンド(DVD)
・キングオブプリズムSSS 1,2
・メリー・ポピンズ・リターンズ
・ゴジラ キングオブモンスターズ
→ エンタメとしてはおもしろかったですが、核の扱い方が解釈違いでうーむ……
・ガルパン最終章第2話
→ そどまこがいよいよやばい
・主戦場
→ ことしはあいちトリエンナーレの件もあってしんどかったねえ……
・天気の子
→ 心のなかで大爆笑しながらみてた。拳銃とかギャグとしか思えなかったです
・たまこラブストーリー(配信)
→ みどりちゃんの映画だった……
・帝一の國(配信)
・スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて
→ よかった……ありがとうえいたそ……
・フラグタイム
アニメ
・ケムリクサ
→文明崩壊後みたいな世界、たつき監督のオブセッション炸裂でよかった。バスタ新宿がでてきたのもよい。
・さらざんまい
・ゾンビランドサガ
→リリィちゃんが好きだけど箱推し。死んでも夢を叶えられる!
・SSSS.グリッドマン
・荒野のコトブキ飛行隊
→せめて2クールで観たかったよー。空戦はよいねえ……
・キンプリSSS
→なんだかんだでジョージ回が印象深い。ルヰくんしあわせになって……
漫画
・鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』
・さと『フラグタイム』
・つづ井『裸一貫!つづ井さん』
・こうの史代『長い道』
・野田彩子『ダブル』
・たみふる『付き合ってあげてもいいかな』
・牧野あおい『さよならミニスカート』
月吠えの最後2巻くらい積んでます……覚悟……
詩歌
・門脇篤史『微風域』
・山階基『風にあたる』
・山川藍『いらっしゃい』
・藪内亮輔『海蛇と珊瑚』
・水原紫苑『えぴすとれー』
小説とか
・米澤穂信『いまさら翼といわれても』
・多和田葉子『ゴットハルト鉄道』
・ヘッセ『デミアン』
・中井英夫『虚無への供物』
・中野重治『歌のわかれ』
ブクログの本棚はこちら→https://booklog.jp/users/ashco
もっと読んでる気もするんだけど、読了せずにあっちもこっちもなんだよな……
それでは来年もすこやかにほどほどに!
おとぎ話の破れ目、または、夜中のジャングルジムで頬に触れる
都市の夜のしずけさとざわめきは、おとぎ話の森のように深くて甘い。
大森靖子「ミッドナイト清純異性交遊」のMVには、そんな夜の呼吸のすべてが詰まっている。何度もくりかえしくりかえし見たから、いつしか夢の中の景色みたいになっていたこのシーンに、歌でなくせりふが入ったら、夢が破れて見ている僕もうつつに引き戻されてしまうのではないかとずっと思っていた。
このMVをもとに作られた映画『ワンダフルワールドエンド』のDVDを買ったまましばらく積んでいた理由は、醒めさせられてしまうことへの不安だった。でも、ぜんぜん杞憂だった。
むしろ、ラストシーンでふたりが呼び交わした名前は、夢とうつつの破れ目から手を差し入れて、ひっくり返して、現実の空をおとぎ話の空に書き換えたっていいんだと教えてくれた。
橋本愛の気高さと蒼波純の透徹は言うまでもなく、クソオトコ役の稲葉友の脱力させられる勘違いっぷりには目を見張った(仮面ライダードライブの詩島剛役のイメージが強かったので余計に)。
この映画がなによりすばらしいのは、橋本愛の「言いよどみ」の圧倒的なリアルさだと思う。声が心のかたちをふちどるやりかたは、たいていいつもぎざぎざで、とぎれて、へなへなで、だけどかたどりたい姿がなによりしっかりあって、言いよどみにこそ人は人の気持ちを見出してしまうものだ。口では言いよどみながら、お互いをiPhoneで撮影しながら、暗い部屋であみに思いを伝えるしおりのシーンは白眉。光をなげかけあいながら。ワンルームファンタジー。
たしかに僕だって夜の風の音を、闇の匂いをしっていたはず。公園のジャングルジムがおとぎ話の森になる瞬間を、逃さずにつかまえたい。そうでなければ生きる意味がない。
「今日」のこと ――仲田有里さんの歌について(1)
OLが一人一本傘差して祭りも昨日終わって今日は 仲田有里『マヨネーズ』
交差点をみおろしているような画を想像する。信号が変わって、ぱらぱらと渡り始める数人の女の人。「祭り」はお神輿や屋台の出るようなのじゃなくて、彼女らをながめる〈私〉にとってのなにか個人的なささやかな祝祭なのではないかという気がする。結句が「は」で終わっているわりには、余情や愛惜のしめっぽさがない感じ。「一人一本」という言い方も、たとえば「一人に一つのかけがえない命」とかいうような押しつけがましいニュアンスはなく、あたりまえのことなんだけど現に目の前で一人一本ずつ差している、という認識をそのまんまのっけたみたい。さみしさや愛おしさになる手前の、ふわっとした空白のような手ざわりの歌だと思う。
この歌を含む仲田有里さんの30首連作「今日」が発表されたのは2006年で、2017年に歌集『マヨネーズ』(思潮社)が出るまでのあいだ、「今日」は生きる支えだった。というと大げさなのだけど、折にふれて思い出してはそらんじて、感情の浮き沈みの手前にある凪のような、ぼうぜんとしたような感じをだいじに思ってきた。「今日」が歌葉新人賞で次席を取った2006年に僕は大学に入り、短歌サークルに入った。はじめてほかの人の短歌連作をいっぱい読むという経験をしたのが歌葉新人賞で、候補作の歌たちにはその頃の記憶と結びついて忘れがたいものはほかにいくつもある。けれど、普段はみえなくてもいちばん体に棲みついてしまったみたいなのが、「今日」だった。
(以下、仲田有里作品の引用はすべて連作「今日」から。表記は歌集『マヨネーズ』に合わせます)
薄い葉が冷たくなってる冬の朝君の口から白い息が出て
歌集ではおそらく季節の関係で別の連作に入っているけれど、2006年版の連作「今日」では冒頭の歌。作歌のセオリー的には、「冷たい」「冬」「白い息」は意味的にかぶるから3つも使わないと思う。どれかを削って心情みたいなものを入れてみたりとか。でもこの歌は、こうとしかならないっぽい。「君が白い息を吐く」とかじゃなくて「口から」「出て」という、ぶっきらぼうな感じ。「薄い葉」「冬の朝」「君」「白い息」の間に遠近感がないというか、ぜんぶ対等にこの人はみている、ように思える。
春の日に手を見ておればとっぷりと毛深しわが手夕闇のせて 大森静佳『カミーユ』
遠近感とか奥行きっていうのは、たとえばこういう歌にはすごくある。視点に近いところに手があって、手の甲に産毛が生えていて、そのずーっと向こうでは空が暮れていって、その夕闇も視点人物もぜんぶ包む「春の日」が初句に置かれる。
「今日」にもどります。
カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる
変な歌だと思う。「雨」と「水」の重複もそうだし、「カーテンの隙間」「隙間に見える」「見える雨」とダブらせながら認識をスライドしていくような文体。口語短歌は動詞の終止形と連体形が同形だからときに意味を確定しにくくて、ではこの歌ではそれをあえて〈逆に利用〉しているかというと、そうじゃないっぽい。降るのは雨で、ベランダの手すりを濡らしてるのは水だよな、とも言われてみれば思うし、たとえば眠る前とかの、ぼんやりとしている反面、意味とか文脈とかを捉える力とは逆のほうこうに変に意識が研ぎ澄まされている、あの感じ。
てかてかと光った葉っぱがこの道の向こうに縦の信号の横
駐車場の鳩を通って6月の24日の風が吹いてる
昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある
本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある
目の前のそこにそれが〈在る〉ことをあたりまえに見過ごしたりしないで、すごくちゃんと確かめる。立ち止まって確かめないでは、それはそこに〈在る〉ことができない感じ。その独特なテンポ。1首め、〈私〉と信号と道と葉っぱには奥行きがあるはずなのに、どこか地図の上の道案内みたいな、同じ平面にあるみたいな存在のしかた。2首目、鳩がなにかの文脈上の特異点なのではなくて、鳩〈において〉駐車場、風、6月の24日、のぜんぶが今ここに在る。3首目、「白く光って」の比喩やニュアンスの上塗りのなさがすごい。歯磨き粉がある。これは間違いなくあるよな……。4首め、時間的な前後関係も、やっぱり同じ平面にあるみたいに並んでいるし、あまつさえ「植木や壊しかけのビル」という空間的なモノたちとも同じ平面にあるのでは?と思わせてしまう。
だけどどうなのだろう。ほんとうはこっちの認識の仕方のほうが本来的なのかもしれない。だからこそ、僕はこれらの歌たちをふいに思い出して、ふわっとした空白に無意識の深い深いところで、十年来、安堵させられてきたのではないか。
すり鉢で豆腐を擦ってぐちゃぐちゃにしてからあなたの口に入れたい
マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる
夜空とか映画館とか指先が見えなくなると会いたく思う
そしてそれは、人と人との距離のとり方や思いの寄せ方についても、同じなのではないか。押し付けたいでも味わわせたいでもなく、ただ「入れたい」。悪意とか好意とかとも、ただ「一緒に生きる」。私のはじっこが見えなくて、感情より先に、会ってなにがしたいとかではなく、ただ会いたいと思う。
ここに入れるのが良いのかわからないのだけれど、去年の7月に「さまよえる歌人の会」で『マヨネーズ』のレポーターをしたときのレジュメの一部に加筆して載せてみます。
〜レジュメここから〜
抗いようもなく過ぎてゆく日々をわたしたちは惜しんだり悼んだり愛おしんだりする。日々のなかでふれあう人や物、それらにまつわる記憶もふくめて、わたしたちは今日を悼む。
手に手をとって向き合ったままでいようよ
そのまにも
二人の腕の橋の下
永遠のまなざしに疲れた波が過ぎて行き
夜よ来い 時鐘(とき)よ打て
日々は去り行き私は残る(ギヨーム・アポリネール「ミラボー橋」より)*1
けれど、惜しんだり悼んだりできるためには、〈時は流れ去る〉ということが自明のこととして前提されていなければならない。人や物がうつろうことを嘆くには、〈今・目の前〉あるいは、〈あのとき・あの場所で〉が、川の水のように、流れ去りながらも、一つの統合された姿をしていなければいけない。
でも、時の流れや目の前の世界の像はよく見ればみるほど分裂するし、ぶれてしまう。その姿に愕然としているうちに次の愕然、また次の愕然がくる。惜しむための立脚点を定められない。
ふつうは、目の前の世界やものごとを認識するとき、最大公約数をとって妥協する。ほかの人と共有できるレベルにするために、嘘をまぜて像を固着させる。〈見たまま〉の歪みをいちど捨て、〈それっぽさ〉を物や人や空気にになわせるのが、人が生きるための知恵であり、かけひきのシステムである。
だけど、ぶれたままの像を、その姿に愕然としながらもなお見つめているのが、仲田有里『マヨネーズ』の短歌たちである。
ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まようパレット やすたけまり『ミドリツキノワ』
やすたけの歌においては、ニワトリのみを前景化させて扱うことへの素朴な懐疑が示されている。ただし、「かかなくていい?」と迷っているので、どちらかに価値の重みを置かなければいけないとは思っているようだ。
仲田の歌においては、「網」も「ニワトリ」も「パレット」も、どこか等価なものとして目の前にあるような、そんな見え方をしているのではないか。
〜レジュメここまで〜
さいごに。
バスタオル2枚重ねて干している自分を責める星空の下
これより深くみずからをえぐるような自傷をほかに知らない。けれど同時に、これより優しいみずからの慈しみ方もほかにないのではないか。自分は決して悲劇の主人公ではなくて、世界には内も外もなく、2枚のバスタオルも、物干し竿も、ぜんぶこのベランダにひとしくあるのだ。
青空のような夜空のベランダで洗濯ばさみが少し欠けてる
(つづく)(次回は「今日」以外の『マヨネーズ』の好きな歌とかについて話します)