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みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

ミルキィホームズ第2幕は家族のお話ではないか

感想

 冬アニメで毎週一番楽しみに待っていたミルキィホームズが終わってしまった。ちょっとだけ思ったことを書きますね。

 そもそもミルキィは1期のときノーマークで、1話と10話以降しか見なかったのだけれど、じゅうぶんその狂気と魅力にはやられてしまった。いや、狂気というかポジティブな共犯というか。同じギャグアニメでも例えばカブトボーグなんかは、暴走した展開・ネタ・せりふ回しなどのディスコミュニケーションをそのままぶつけてきて、視聴者は外側からそのズレや飛躍にあえて乗っかって楽しんでいる。でもミルキィの場合は非常にサービス精神に富んでいて、平熱の高さで押し切って巻き込むみたいなところがある。ミルキィホームズもG4も怪盗帝国もみんな近しく感じられて、だからミルキアンは自然と「ココロちゃーん俺ですよ」と発話する。ふつーの「萌え」よりは半歩だけ踏み込んでると言ったらいい過ぎだろうか。画面の向こうのみんながずんずん歩み寄ってきて、気づいたら自分もお花畑にいた。少なくとも僕はそんな感じがしました。

 前置きが長くなってしまった。さてたぶん本題。
 ミルキィホームズはみんなかわいい。シャロは天使だしネロはこいつめーってぐりぐりしたくなるしエリーは野菊のような変態だしコーデリアさんはまじお花畑だし。僕も一緒に農作業して一緒に野菜を食べたい。
 でもミルキィホームズはダメダメダメダメダメだ。だからアンリエットさんがどんどん病んでいく。第2幕の7話で学院を破壊し、ついにはスリーカードと対峙したアンリエットさんを見てとても悲しかった。もうやめてよ…と思った。楽しんでいるだけじゃ、お花畑に居続けては、大切な人が離れていってしまう?僕は視聴者だけどお花畑に一緒にいたので、その痛みを自分のものみたいに感じて辛かった。やや大げさだけど。
 しかもミルキィホームズは大ばかの集まりなので、自分たちの過ちが何なのか自覚すらちゃんとできていない。でもアンリエットさんに甘えていたのだな、ということは理屈でなくどこかでわかる。
 わかったからと言って意志も振る舞いも急に変わったりはしない。ラードの一件での、彼女らの取って付けたような束の間のがんばりは決して見るものの胸を打ったりなどしないけれど、ミルキィホームズが、スリーカードがアンリエットさんとまた一緒に日常を始めたラストには心から安堵する。
 
 友だちや恋人ならば、甘えで縁は簡単に切れる。でも家族はそうじゃない。甘えだろうがなんだろうが一緒にいるしかない。その気持だけは、シャロたちとアンリエットさんがお互いに等しく持っている。多きすぎてかたや空回りし続け、かたや大爆発してしまったけれど。
 そういう意味で、ミルキィ2幕は家族が散り散りになってまたひとところに戻ってくるお話なのだと思う。アンリエットさんは長女だ。あんなお姉さんがほしい。やけ烏龍茶している傍らに黙って座っていてあげたい。

 大切な人のそばに居続けたいのなら変わる必要だってある。だけど別に、何が何でも絶対に今すぐ変わる、しかないわけじゃない。胸を打つ理想や言動や行動はあとだ。良くなるのなんてずっとあとかもしれない。でも一緒にいよう。
 ミルキィ2幕はアンリエットさんがシャロたちと「同じ釜の飯を食う(野外)」ところまで引き摺り下ろされる過程だ。ダメダメじゃん。ダメダメでもどうしても好きで一緒にいたい。それではいけないだろうか。もちろん現実で度を超えてやったらだめだけれど、でも。
 シャロたちとアンリエットさんを見たから、自分がダメダメであることが人に甘えていけない理由になるだなど大嘘だ、っていう風に僕は都合よく信じることにする。たまにでいいから周りと家族的になあなあな許しあいをすればいいんじゃないか。ダメダメでも生きてたほうがいいに決まってるのだから。ダメダメも甘えもあって初めて、シャロとアンリエットさんが最終話で見せたあんなに素晴らしいダンスを踊れる、そんな気もするのだ。