みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

心はたこやき

 特撮の感想書くのひさしぶり。
 今朝の仮面ライダーゴースト第30話「永遠!心の叫び!」に心を動かされて書いています。アラン様がかっこよかった。

 ゴースト、あら探しをしようと思えばいくらでも出てくるというのは正直なところ思っていて、いちばん気になるのはタケル殿もマコト兄ちゃんも「心」とか「魂」とか何回も言うでしょ、あれが気になる。えっそんなにむき出しの、愚直なまでの使い方をしていい言葉なの、ってひるんでしまう。たとえばウィザードで晴人が「絶望させない」って口にするのは個人的なトラウマとも結びついていたから、ある程度その言葉が口に出てくるまでの経路をトレースしやすい。けどタケル殿が「心を救いたい」みたいなことを言うのってもう個人の欲求を超えてなんだかもっとスピリチュアルな次元に突き抜けていくわけ。回を重ねるごとにその度合も増していく。
 そういう「心」とか「魂」とかを含む科白に、物語の展開とか、前後の文脈とか、タケル殿(たち)の生い立ちとか、意味とか、そういう経路では説得力を感じにくい。でも、なのになぜかダイレクトに心を揺さぶられる瞬間が何度かあって、それがゴーストの変だけどすごいところな気がする。演技や声や画面全体がなぜか不思議な説得力を帯びてしまう感じ。意味より速くダイレクトに声が飛び込んでくるというか。だから個人の性格とかはとくに似てないのだけれど、タケル殿を見ているとカブトの天道とか、ドキプリのマナとかを思い出させるところがある。指を立てるしぐさ一つで、完ぺきな笑顔ひとつで、その作品世界のぜんぶを掌握し、肯定してしまうみたいな力を思う。あるいはスイプリの最終盤で「ノイズを救いたい」と言い切ったキュアメロディの声と表情がよみがえる。

 今朝のアラン様がたこ焼きを食べながら敵をばたばた倒し、己の限界を超える場面も、もう完全に意味や文脈を置き去りにしてアラン様の一挙手一投足がそのまま彼の心を語っていた。ちょっと奇跡的なくらいエモーショナルで、うつくしかった。言葉にすれば「兄が父を手に掛け、信じてきた理想もゆらいでいたところに、温かく接してくれた親しい年長の友人が死んでしまった。こんなに痛む心ならばいっそなければいいと絶望しかけたが、意志を継いで生きていく決意を、戦って心の宝物を守る覚悟を新たにした」とかそういうことなんだけど、もうこんな冗長な語りではぜんぜん追いつけないでしょう。悩みぬいたからこそ自然に、考えるより先に振り絞ることのできる勇気というのがあって、それをアラン様のたこやき食べ変身という形にしてくれたゴーストはとても優しい作品だと思う。油断しているとこういうすべてのタイミングがぴったり調和した回があるから日曜の朝に特撮を見るのはやめられない。
(ちょっと余談。アラン様を見ていて誰かを思い出すなあ、と思っていたけれど、「日常」のなのちゃんだった。ロボットのなのちゃんは学校という外の世界にかよって、友だちができて、新しい世界をむきだしの生身でくぐりぬけて知っていく。あの温かい感じ。アラン様は人間の世界という学校に、ちょっとタイミングは遅れたけど通って、いろんなことを知っていく)

 ゴーストは毎回2コマまんがの連続みたいなテンポでどんどん出来事が推移していってハチャメチャ大混乱だよ、とも思うのだけれど、えっフミばあほんとに死んじゃったのえっうそ嘘、みたいなあっけなさは実はすごく現実っぽくて、だからこそ胸がざらついてしまう。物語や筋書きを俯瞰して見るのには向いていなくて、渦中からあの世界を見渡して追体験するのがこの作品の楽しみ方なのかもしれない。わたしたちの心(と書いてゴースト)は画面の向こう側へと飛んで行き、来週もまたあのたこやきを食べるだろう。アラン様の、そしてフミ婆の隣で。

『少女革命ウテナ』最終話をみるまえのメモ

 見よう見ようとずっと思い続けていた『少女革命ウテナ』をついにみています。レンタルでちょこちょこ借りながら3か月くらいかけて。さっき38話「世界の果て」を見終えて、心の準備と気持ちの整理のためにとおもってこれを書いています。ほんとうは全話見終わったら好きな回ベスト5とかを中心に感想書こうかなとか漠然と考えてはいたものの、終盤へと進むにつれてどんどん緊迫感が増してきてそれどころではないなうです。37話の時点でもう息が苦しくてだめなのでいったん落ち着きます。前後のつながりもない雑多なメモになるかとおもいますが、どーもどーも。
 以下、物語の核心およびその周辺に触れる記述もありますのでご注意ください。

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暗いところで洗濯物を(2015.10.15)

 とある事情があってわが家にはいまインコがいる。大伯母、くわしく言うと母方の祖母の姉にあたる人(以下おばさん)が飼っているインコである。預かって半月くらいになる。名前はチュン。名前はなくて愛称なのかもしれないけど、とにかくチュンちゃん。チュンはよく食べよく眠る。米とパンをがつがつ食らう。おばさんはご飯を自分の口で咀嚼したものを指や口からじかに食べさせていたのだけれど、それだと籠から出さなきゃいけないので格子越しに召し上がっていただくことにしている。言っとくけどほんとにすごくがつがう食うからな。エレクトリカルパレードのメインテーマを鍵盤で弾いている指の動きを思い浮かべていただきたい。その5倍速でくちばしが動きます。ただ、食べているときより眠っているときのほうがチュンは存在感があるような気もする。彼女は早寝なので、わが家でいちばん早く帰ってきたひとが夕方、パンか米を与えて、うとうとしだしたら風呂敷で籠ごと包み込んで夜にしてあげている。かくしてチュンは眠る。ベランダに面した窓のそばに夜の籠を置くことにしていて、するとそちらは南側なので、物干し竿が渡してあり、つまり洗濯物が干されている下で彼女は眠っている。きょうもチュンが寝てから洗濯物を干したのだけれど、ふつうならつける小さな電灯をつけずに、暗いなかでシャツをハンガーにかけて吊るした。濡れている布に指で触れ、つまみ上げ、もう片方の手はハンガーを触り、左右でべつべつのひやっこさを感じる。視覚を制限することで触覚がすこし冴える、ような気がする。こういうのって意図してやろうとすると、たとえば目を閉じて虫の声を聞くとかすると、そのじてんで身構えがわざとらしくなって、じぶんに対する演出みたいになっちゃいがちである。でも明かりをつけずに洗濯物を干した動機はようするに「まあいっか」なので、感覚を冴え渡らせるのが目的ではないため、ほんのちょっと健やかな感じがする。強いるではなく、懇願するでもなく、「まあいっか」方式で洗濯物を暗がりで干させるあたりに、眠っているチュンの存在感があるなあと思うのだった。(2015.10.15)