みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

下書きに残っていた四月の書きかけ日記

 お風呂のお湯を沸かす用の灯油タンクが空になり、タンクの蓋が固くてどうしてもあかないので銭湯に4日間通った。平日なのに旅先みたいな気分になった。髪が濡れたまま誰もいない路地を歩く夜が春だった。裸眼でみる街灯のひかりがぼやけていて、変なの、へんなの、とおもう。届いたとたんに記憶になってしまうひかり。まだ桜は咲いていないのにもう春も終わりみたいな気がする。良経の「あすよりは志賀の花園」の歌を口ずさむ。帰ったらあとは寝るだけだーとおもうと心がハイなまま凪いだ。

何もなかったように、みたいに

忘れた、といつか答えて笑うだろうこの夕暮れの首のにおいも
/笠木拓「何もなかったように」『京大短歌23号』  

 

 6月の誕生日のときに書こうと思っていた日記を今さら書きますね。

 誕生日は月末の月曜日で、前の週の金曜日は仕事が終わってから市立図書館におはなし会を聴きに行った。本を見ないで語るタイプの会で、5つほどのおはなしを語りてが一人ずつ代わりばんこに聞かせてくれた。会場には椅子と人と冷房だけがセッティングされていた。演目のひとつに「いばら姫」があった。

 日曜日は雨で、夜になってから思い立ってスーパーまで車でお米を買いに行き、炊飯器をセットして眠った。

 月曜日。7時すぎになんとか起き上がる。炊けていたごはんをたべる。Coccoの『サングローズ』が聴きたくなって流す。〈でも大丈夫/あなたはすぐに/わたしを忘れるから〉*1。100年眠っていたような10年だった。忘れてしまってぶじに生き残るすべをなんとか身につけて、けれど悲しみも昨日の自分も覚えたままちゃんと連れて行きたい、と思う。
 電車で『フランス名詩選』を読んでいたら、忘れることについて考えているのを見透かすような詩にちょうど遭遇する。

(……)

さて今のいま、去年のわたしの古い悲しみは
どこに行ったか。辛うじて思い出すというくらいだが、
わたしはやはり言うだろう、「ほっといて下さい。なんでもない」と、
もし誰かがわたしの部屋に来て、「どうしたんだね?」と訊ねても。

/フランシス・ジャム〔雪が降りそう…〕*2

  毎日すこしずつ読み進めていたのによりによって。だけど、というより、それだけ忘れることについてしばしば考えているということかもしれない。

 一年前、2016年の6月に観た『リップヴァンウィンクルの花嫁』のことがずっと頭にあって、サウンドトラックは暮らしのなかでくりかえし聴いた。洗濯物を干しながら、劇中でましろを演じたCoccoが歌う「何もなかったように」を口ずさんだ。

誰かが戸口で なぐさめ言っても
もう忘れたよと 答えるだろう

荒井由実「何もなかったように」*3

 目覚めたらお城の中だけがすべてもとどおりだったいばら姫(たち)はハッピーエンドだったのだろうか。〈わが身一つはもとの身〉だと、彼女はどうして信じられたのだろう。

 100年眠り続けなくてさえ、(ふりかえった10年を長いながい眠りのように感じてもそんなのはただの感傷でどうやっても毎日寝て起きるしかない生なのに、)たまに「忘れた」とうそぶいたり本当に忘れていたり、忘れたことにすら気づかなかったり、忘れたつもりで呪いのように覚えたままだったりするのに。

 駅前のビルでりんごとカスタードのチーズケーキを買って帰る。うすべにときんいろの誕生日の夕やけだった。

かたみぞと

かたみぞと風なつかしむ小扇のかなめあやふくなりにけるかな

 /与謝野晶子『みだれ髪』

 

夕方になって外へ出る。最寄り駅に置いたままの自転車を取りに行く。

 

言葉がねむい、からだが覚束ない。夜ごとの夢がぬかるむ。

 

夜じゃないから見えなくなくて、だから自転車に乗るには困らないのだが、眼鏡をかけて出てきた。散歩のときは眼鏡をかけるかかけないかを純粋に気分だけで決められる。選ばなくてもえらべるので、この二択が好き。

 

明るいうちに眼鏡をかけて歩いていると、世界に奥行きがあることを思い出して愕然とする。ブロック塀、電線、雲、ピンク色の西の空、を、うごめきながれる黒い点のカラスたち。

 

自転車には蜘蛛の巣が張っていて、蜘蛛の糸にはふわふわの綿毛がくっついていた。まばらな毛糸みたいだった。

 

スーパーに寄る。

 

出かける前、「とらドラ!」の14話をみた。竜児が亜美ちゃんに「豚肉を食べろよ。生姜焼きはマストだ。生姜は体を温めるからな」みたいに言っていたので、まんまと豚肉を買って帰る。あれよりは薄いやつだけど、いつも豚肉は細切れしか買わないのでじゅうぶんリッチな気持ちになるし、四枚あるから二食分にできる。キャベツと、あと緑のものがほしいのでピーマンも買う。生姜は刻んだのが家に冷凍してある。

 

アイス売り場で女の子がきょうだいに「ねえハーゲンダッツでもいいんだって!」と声をかけている。お母さんがいいって言ってくれたのか、めでたい。僕はピノがいっぱい入ったやつを買うね。

 

食材と一緒に箱ティッシュもスーパーで買う。手間もふくめてコストを計算した結果であって、むかしの自分なら隣のホームセンターのほうが安いだろうからべつべつに買っただろう、と思う。大人になるにつれて、こういう「次善の策」が許せるようになるのを感じる。どんどんヤキが回る。

 

自転車のかごにまずは箱ティッシュを寝かせ、その上に買い物袋を置く。漕ぐと減速したときにはずみで肉がうしろに飛びそうなので、押して歩く。

 

ストーカーを撃退したあと、緊張の糸が切れて涙を見せた亜美ちゃんに、竜児が「よくがんばったな」みたいに言ったりしなかったことを思い出す。

人間が人間に関わろうとするとき、ともすれば、物語の慣性みたいな力に流されてしまう。そのようにして、言わなくてもいいことやしなくてもいいことを英雄的な気分で友だちに押し付ける。じつにたやすく。

 

とらドラ!の子たち(〈子たち〉!)はみんな賢いし客観性もあるし、自分でじぶんのエゴに言葉で気づけて、気づいたらちゃんと伝えられるからとてもえらいな、と考える。

齢を重ねるほど、それがどんなに難しいかわかって、身にしみて、先回りで諦めるようになっていく気がする。知ったからって諦めていい理由にはならないのだけれど。

 

味噌汁を作り、野菜を刻み、豚肉に下味をつけて銭湯へ行く。まだ明るさが残る時間に行くのは初めて。

 

銭湯は、春にボイラーの灯油が切れて、一週間通ったとき以来だ。雨の日もだった。

 

帰ってきたらちょうどごはんが炊けていた。

生姜焼きは甘さをおさえてしょっぱめにして、とてもおいしくできた。

誰のために、を考えてもつらくならないので料理は良いな、と思う。慣性で塩をふりすぎてしまっても、ちゃんと結果に反映されてすぐに自分で気づくことができる。

 

座椅子でこれを書いている。太ももがMacBookの熱であたたかい。今日は風がそんなに入ってこない。

さっきの子のハーゲンダッツを思いながら、これを書き終える。

まもなく、あしたも生姜焼きを食べる世界で横になって、目を僕は閉じるだろう。