みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

『少女革命ウテナ』最終話をみるまえのメモ

 見よう見ようとずっと思い続けていた『少女革命ウテナ』をついにみています。レンタルでちょこちょこ借りながら3か月くらいかけて。さっき38話「世界の果て」を見終えて、心の準備と気持ちの整理のためにとおもってこれを書いています。ほんとうは全話見終わったら好きな回ベスト5とかを中心に感想書こうかなとか漠然と考えてはいたものの、終盤へと進むにつれてどんどん緊迫感が増してきてそれどころではないなうです。37話の時点でもう息が苦しくてだめなのでいったん落ち着きます。前後のつながりもない雑多なメモになるかとおもいますが、どーもどーも。
 以下、物語の核心およびその周辺に触れる記述もありますのでご注意ください。

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暗いところで洗濯物を(2015.10.15)

 とある事情があってわが家にはいまインコがいる。大伯母、くわしく言うと母方の祖母の姉にあたる人(以下おばさん)が飼っているインコである。預かって半月くらいになる。名前はチュン。名前はなくて愛称なのかもしれないけど、とにかくチュンちゃん。チュンはよく食べよく眠る。米とパンをがつがつ食らう。おばさんはご飯を自分の口で咀嚼したものを指や口からじかに食べさせていたのだけれど、それだと籠から出さなきゃいけないので格子越しに召し上がっていただくことにしている。言っとくけどほんとにすごくがつがう食うからな。エレクトリカルパレードのメインテーマを鍵盤で弾いている指の動きを思い浮かべていただきたい。その5倍速でくちばしが動きます。ただ、食べているときより眠っているときのほうがチュンは存在感があるような気もする。彼女は早寝なので、わが家でいちばん早く帰ってきたひとが夕方、パンか米を与えて、うとうとしだしたら風呂敷で籠ごと包み込んで夜にしてあげている。かくしてチュンは眠る。ベランダに面した窓のそばに夜の籠を置くことにしていて、するとそちらは南側なので、物干し竿が渡してあり、つまり洗濯物が干されている下で彼女は眠っている。きょうもチュンが寝てから洗濯物を干したのだけれど、ふつうならつける小さな電灯をつけずに、暗いなかでシャツをハンガーにかけて吊るした。濡れている布に指で触れ、つまみ上げ、もう片方の手はハンガーを触り、左右でべつべつのひやっこさを感じる。視覚を制限することで触覚がすこし冴える、ような気がする。こういうのって意図してやろうとすると、たとえば目を閉じて虫の声を聞くとかすると、そのじてんで身構えがわざとらしくなって、じぶんに対する演出みたいになっちゃいがちである。でも明かりをつけずに洗濯物を干した動機はようするに「まあいっか」なので、感覚を冴え渡らせるのが目的ではないため、ほんのちょっと健やかな感じがする。強いるではなく、懇願するでもなく、「まあいっか」方式で洗濯物を暗がりで干させるあたりに、眠っているチュンの存在感があるなあと思うのだった。(2015.10.15)

100エーカーの破れ目(2015.09.05)

 どちらかと言うと映画は苦手なほうだったはずなのだけど、ことしは映画づいている。さいきん劇場で観たのは『追憶と、踊りながら』『バケモノの子』『マッドマックス 怒りのデスロード』『花とアリス殺人事件』、借りてきて観たのは『惑星ソラリス』『ペーパームーン』『サウンド・オブ・ミュージック』『かもめ食堂』とかだと思います。ですじゃなくて思いますなのは数え忘れてたり去年みたやつが混じってるかもしれないからです。映画はいきなりとある世界に放り込まれたりばーんて示されたりしたわりに2時間そこらでその世界とか物語とか人たちの運命とかがいちおう完結するじゃないですか、すると〈一部始終を目撃するひと〉を2時間ぶっとおしでつづけないといけないのでなんとなく気構えがいるじゃないですか? しょうみなはなし? って思ってたわけよ。うんと幼いころはレーザーディスクでディズニー映画(など)を死ぬほど何回もみていたので、映画ってひとつの完結した世界なんだよっていう刷り込みがあるのかもしれない。ほら100エーカーの森みたいに。霧の中でプーとこぶた(レーザーディスク版だと「ピグレット」じゃなくて「こぶた」なのだ)が同じところをなんどもぐるぐるまわって、同じ穴ぼこに帰ってきてしまったことで有名なあの100エーカーの森。だけどよくよく思いだしてみると、歩き疲れてそのクレーターみたいな穴ぼこでうとうとしてしまったこぶたたち、目覚めたあとお腹が空いたプーの嗅覚によってすんなりはちみつの待つおうちに帰れたんだったはず。われわれも映画が終わればおうちに帰るし、借りてきたDVDもツタヤの棚に帰るし、映画のなかの人たちもどこかへ帰ったり帰らなかったりする。と、ここまでだらだらと前置きを書いたところでちゃんと筋道たててまとめるのがめんどうくさくなってきました。今日観た映画について話すね。呉美保監督の『きみはいい子』です。とても理知的に構築された映画で、つくる側が情に流されてないからこそ泣いてしまった。長回しのシーンが多かったり、母親が娘をぶつのを隣の部屋から撮っていたり、おばあちゃんちの玄関のすりガラス越しの逆光や、長いマンションの廊下の気の遠くなる感じ、雨の音と会話の声がひとしく釣り合っている音響の感じ、などなど、総じて一步うしろに下がったところから作っている印象だった。だからこそ後半で人と人、顔と顔、肌と肌の距離が近づく描写がすんなり胸に入ってきたのだとおもう。逆光から順光へ。苦しいのはこれからもつづくよ、一発逆転の魔法でなにもかもに片がつくなんて無理だよ、だとしてもだからこそ抱きしめたいよ。帰りに香林坊から武蔵まで父と母と歩いた。映画の前は駐車場から3人ばらばらに劇場まできた。尾山神社のステンドグラスがさっきは夕日を受けて、こんどは電灯で内側からひかっていた。帰ってきて2月にもらったチョコレートフレイバーの紅茶を飲んだ。飴の瓶の蓋があかない。明日は日曜日だ。(2015.09.05)