みなそこすなどけい2

水底砂時計ni

映画『ヴァンパイア』感想

 岩井俊二監督の映画『ヴァンパイア』を観てきました。感想をだだだっと書きます。以下、作品の結末や核心に触れる記述を含みます。ネタバレ注意。


 心の中で思わず「ばかやろー!」と叫んだ。そのシーン、サイモンとレディ・バードがお互いに本当の名前を明かすシーンは、まさに魔法が解ける瞬間だった。それは胸に迫る告白なのだけれど、おなじくらい、あるいはそれ以上に愚かな行いにも思えてしまう。殺して血を抜けばきっと、もっとずっと美しかったのに。すぐそこに手を伸ばせば届いた、完璧な魔法を捨ててまでこの先も生きて、それでお互いに満たしあえるとでも本当に思っているのか?
 生きてゆくことは呪いだ。どろどろとした呪いだ。靴に入れた小石を取り去って、凡百と同じように目立たないように、均質なペースで歩けと強いられる。血を抜けばそのルールから自由になれたはずなのだ。どこまでも飛び去ることはできなくても、束の間を自在に飛翔して見せることだってきっとできたのに。サイモンの逃走シーンで彼が一瞬宙に浮き、空中を歩いたように見えるのは、その後に待ち受ける絶望の予兆でしかない。彼の母親だって声を取り戻した代わりに、地面に落ちてしまった。軟着陸ではあったけれども。ともあれ魔法は解けたのだ。地上の身も蓋もなさ、ろくでもなさにただただ愕然とする。
 自殺未遂に失敗したミナ(蒼井優)は生きることという呪いに縛られ続けるだろう。けれども、彼女に輸血された血は、魔法が、ファンタジーが継承されることの証でもあったのかもしれない。どこまでも清くそして美に忠純なヴァンパイアであった男=サイモンから、生き延びた少女へと。(ちなみにこのことは帰り道で、一緒に観にいった友人の言葉のおかげで気づけた。)
 サイモンが飛んだのは、所詮夢の中に過ぎなかった。白くてすべすべの、夢の風船。閉めきった部屋の中を、冷蔵庫を見下ろしながら――その条件でのみ許された飛行だ。目を開けたまま夢を見るには、このどうしようもない地上に足をつけたままで、白い夢の風船が天へと(届かないのに)上ってゆくのを見送るしかないのだ。(あるいはサイモンの母親のように、風船を背負ったままでピアノを奏でるという、もう少しだけ純粋なままでいられる、橋渡しの生き方もあるかもしれないが。)
 空と地面とのあわいを、歩行するしかない。それだけが夢を見ながら生きるやり方なのだ。体を巡る血も、体に纏わりつく言葉もこんなに重いのに、どうやって?
 でも案外、16マイルは遠くないかもしれない。ふとしたことから、あの美しく光の差し込む森を、誰かと隣り合って歩けるかもしれない。ヒルを払いのけながら、60兆の細胞を養いながら。靴の中の石だって大事に連れていこう。そのせいでどれだけ歩きにくくったって。
 解けない魔法はない。でもその代わり、血の流れる身体で、血の通う肌で抱き合い、ぬくもりを帯びた声で呼び合うことなら、きっと可能だ。なんて残酷な希望、なんてまぶしすぎる逆光。
 なにもかもが白いひかりの中にあるシーンをとぎれとぎれに繋いでゆくしかない。そのむやみに強い光を浴びながら、濃く深く彫られた相手の影を、輪郭を認め、手を伸ばし、触れ……そうするしかないのかもしれない。そのために魔法を捨てる価値はあるのか、たぶんすぐにはわからない。またすぐ汚されてしまうかもしれない。
 夢は見る、魔法は使えない、それでも靴に入れた石は捨てないままで、歩き続けられるだろうか。なにも保証はないけど、やっぱりそうしたいなと思う。携えてゆくべきシーンを、この映画の中にいくつも見つけられたから。


あといくつか
・ヒロインのレディ・バードさんがすごくかわいかった!!登場シーンから雰囲気あった。
・後半はぐいぐいひきこまれたけど、前半、特にタクシードライバーを装っての犯行シーンは見ていてきつかった(彼が出てきたのはサイモンとの対比なのはわかるけど映像がかなりどぎつくてめげた)。
蒼井優演じる少女の寄る辺ない感じと、彼女に対しては割とそっけない主人公が印象的だった。
・『リリィ・シュシュのすべて』よりお話の進み方が単線的でみやすかった。こっちのほうが好み。
・しばらくトマトジュース飲めない。